FIELD PLUS No.19
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ではない。アイヌ民族によってアイヌ語で書かれた最も有名な文献の1つに、知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』(郷土研究社)がある。大正12年に出版されたものであるが、現在は岩波文庫版があり、文字で書かれたアイヌ語の書籍として最も入手しやすいものといえるだろう。こうして手に取りやすいものもあれば、筆録資料として残されていても出版されていないものもある。例えば、知里幸惠の伯母である金成マツによる筆録ノートには、数々の口承文芸のテキストがローマ字筆記で残されている。北海道教育委員会では、これを継続的に毎年数話ずつ「アイヌ民俗文化財ユーカㇻシリーズ」として刊行している。このような「よむ」ことのできる資料は、貴重であり、これらを読み解いていくことも重要な仕事である。 筆者より上の世代のアイヌ語研究者は、アイヌ語話者からの聞き取り調査を中心に研究を行ってきた人が多い。研究者やアイヌ民族自らなどが録音した音声資料はたくさん残されている。録音されたまま文字化されていないものも多くあり、これらの資料を「きく」こともまたアイヌ語について考える上で重要な作業になる。 また、アイヌ語の文法に関する聞き取り調査が難しくなってきている状況にはあるが、「たずねる」ことで初めて得られる情報ももちろんある。現地を訪ねると、昔アイヌ語でこうやって言っていたのを聞いたと教えてくれる方がいる。そうした方々に尋ねることもアイヌ語について考える手掛かりになる。あるとき筆者は1960年代に沙流方言の話されている地域で録音された散文説話を文字化し、日本語訳をつける作業をしていた。そのなかでnuyanuyaという動詞が出てきた。辞典には「こする」や「揉む」という意味で掲載されているが、文脈に合わず、うまく解釈できなかった。ずっと気になっていたのだが、浦うら河かわでの聞き取り調査で、「揺さぶる」という意味だと教えてもらった。それは、筆者が見たどの辞典にも出ていない情報であり、「たずねる」ことで疑問が解決できたのだった。アイヌ語辞典の特徴 アイヌ語の研究や学習に取り組む人が、最も手に取り、「よむ」機会の多いアイヌ語関連書籍は、おそらくアイヌ語の辞典類だろう。1990年代の後半にアイヌ語辞典が相次いで出版された。中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)、田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)、萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』(三省堂)の3冊である。 筆者はアイヌ語沙流方言を中心に研究を行っており、『アイヌ語沙流方言辞典』を手にする機会が多い。この辞典では、主な話者として12人が紹介されており、見出し語は9400項目にも及ぶ。動詞に着目すれば、アイヌ語辞典の特徴として、動詞基本形だけでなく、派生形や目的語などを取り込んだ複雑な形まで項目として掲載されていることが挙げられる。例えば、先に挙げたmunsoyokuta「ごみを外に出す」という語については、この形も沙流方言辞典には記載がある。もちろん基本形であるkuta「~をぶちまける」は記載がある。そして、okutaは記載がないが、mun「ごみ」という目的語を取り込む前の形であるsoyokuta「~を外に出す」という形も記載がある。このように『アイヌ語沙流方言辞典』では動詞基本形のみでなく、複雑な構造をもつ動詞形も記載されている。これは、先に挙げたほかの2冊の辞典にも共通している。 複数の辞典が出版され、それぞれには多数の項目が記載されている。しかし、新しい「よむ」資料、「きく」資料に接するとき、辞典類を片手に取り組んでも、そこには記載されていない、これまで知らなかった形に出会うことはよくあることである。これまで知られていなかった形を集め、考えることが、アイヌ語動詞の規則性を探るうえで重要だと筆者は考えている。どれも大事な「よむ」、「きく」、「たずねる」 アイヌ語が日常生活で中心的に使われる場面に出会うことはほとんどなくなったかもしれない。しかし、その一方でアイヌ語に興味のある人がアイヌ語に触れられる手段は確実に増えている。今後、アイヌ語に対する世間の関心が高まる可能性もある。アイヌ語でさまざまなことを表現する機会もでてくるかもしれない。言葉は常に変化するものだが、その変化の土台には「正しい」とされる文法があるはずである。話者が少なくなった言語では、その文法を解明していくには残された資料を活用しなければならない。アイヌ語では「よむ」こともその文法を明らかにする重要な手掛かりの1つなのである。19FIELDPLUS 2018 01 no.19(一財)アイヌ民族博物館のカフェで出されているオハウ(鮭と野菜のお汁)。現地を「たずねる」とアイヌ料理を味わうこともできる。白しら老おいの(一財)アイヌ民族博物館でガマを干しているところ。ガマは編んでゴザなどに利用する植物。現地を「たずねる」と、ときにはこうした光景をみることもできる。1990年代後半以降に出版された3冊のアイヌ語辞典。筆者がアイヌ語の文字資料や音声資料に触れるときは、これらの辞典類を片手に進める。岩波文庫版の知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』。13の神謡が収められている。

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