14FIELDPLUS 2018 01 no.19 この《突厥》とは6世紀半ばから8世紀前半にかけて中央ユーラシアの覇権を握っていた騎馬遊牧民のことであり、彼らがうちたてた国家の名前でもありました。簡単に言えば、トルコ(テュルク)と耳にした当時の中国人が、それを漢字で音写して突厥と記したのです。 突厥碑文はまさに草原のタイムカプセルと言うべきもので、言語の上で今のモンゴルが昔はトルコであったことを物語る史料です。ちなみに当地でモンゴル語がトルコ語を凌しのいで優勢になるのは13世紀以降のことで、草原の英雄チンギス=カンの登場とその活躍が契機となりました。遊牧民と文字 そもそも遊牧民は自分たちの言葉を自分たちの文字で書き残す習慣がありませんでした。家畜とともに季節ごとの牧地を遷うつりゆく、身軽さを重んじる彼らの生活に文字は必要なかったようです。王統や民族の記憶などは口伝えすれば十分で、商取引の契約は提携している中央アジアのオアシス民や来訪する商人たちに担当させたと考えられています。そのため、遊牧民の歴史を復元するのであっても専もっぱら中国やギリシアといった定住民の記録を利用するのです。 ところが、そこは文化を異にする他者の目で記録された史料ですから、語られないことが大半で今のモンゴル、昔のトルコ 今のモンゴルで昔のトルコ語を読むといっても、すぐにはなんのことか理解できないと思います。かたや中国とロシアにはさまれたモンゴルと、いっぽうアジアもはるか西方、ヨーロッパに隣接するトルコを組み合わせるなんて、いかにも突飛な話だといぶかられること請け合いです。世界地図をひろげてみれば、そこには6000km以上の隔たりがあるのですから。 ところが、この1500年間に中央ユーラシアで起こった歴史をひもとくと、そして、そこで生じた言語や文化の変遷をたどってみると、6世紀から9世紀にいたるまで、現在のモンゴル高原で確かにトルコ語が話されていたことがわかります。はるかな時間と空間をこえて、モンゴルとトルコを結び付ける証拠がしかと存在するのです。草原のタイムカプセル その証拠とは《突とっくつ/とっけつ厥碑文》と呼ばれる1300年ほど前に作成された石碑です。中央ユーラシアの各地に現存していますが、特にモンゴル高原のオルホン川上流域に残された幾本かの解読によって、ここでトルコ語が話されていたことが証明されました。現代トルコ語につながる、この古代トルコ語(テュルク語)を刻んでいたのが突厥文字です。しょうし、偏見も多く含まれています。より客観的な歴史像に迫るにはやはり遊牧民側の記録が必要になります。つまり、8世紀前半に現れた突厥碑文のおかげで、ようやく遊牧民自身の証言から歴史を復元できるようになったのです。遊牧民固有の文字史料が誕生した、中央ユーラシア文化史上の一大画期でした。 ちなみに突厥文字はアルファベットの一種で、古代ゲルマン人の使用したルーン文字に似ていることからテュルク・ルーン文字と呼ばれることもあります。文字の起源は未解明ですが、古代トルコ語を表記するために作成された点は間違いありません。トルコ語に特徴的な母音調和という法則に対応して、後舌音と前舌音系列の単語を書き分けられるように文字が考案されているからです。この文字は突厥にとってかわった回ウイ鶻グルという遊牧国家でも引き続き使用され、モンゴル高原では石碑が、東トルキスタンのオアシス都市では写本が残されました。突厥碑文の研究史 ところが突厥文字は1000年程前に使われなくなり、すっかり失われた文字になってしまいました。19世紀末になってようやくヨーロッパの探検家たちがモンゴルやシベリアなど、中央ユーラシア各地から未解読の文字として資料を持ち帰るようによむ 1今のモンゴルで昔のトルコ語を読む鈴木宏節すずき こうせつ / 青山学院女子短期大学歴史学の基本は史料を読むこと。古代トルコ遊牧民の姿を追い求め、モンゴルで突厥碑文を読んでいます。草原で拓本をとることによって、中央ユーラシアの歴史が一文字一文字現代によみがえります。モンゴル国の首都ウランバートル近郊のトニュクク碑文:突厥第二王朝の功臣に捧げられた墓碑で西暦720年代に建立されたと考えられている。テキストは2本の石柱からなり、写真は第一碑文の西面。2006年、筆者撮影。オルホン川バイカル湖モンゴルウランバートルトルコモンゴルロシア中国
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