フィールドプラス no.18
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カラハリ狩猟採集民の語彙に見ることのできる世にも稀な特徴の数々。これらを浮き彫りにして言語の多様性の限界についての理解を拡大したい。グイ・ガナ語とその文化語彙 私たちのプロジェクトが対象とするグイ・ガナ語(方言群)は、コエ語族カラハリ・コエ大語派に類別される3語派(図1参照)の一つ、南西カラハリ・コエ語派に該当する。その話者集落は南部アフリカ内陸部のボツワナ共和国の中央カラハリ地域(図2参照)に分布し、その話者は1500人程度と推定される。 それらの集落には、かつてカラハリ乾燥帯で狩猟採集生活をしながら伝統的な文化語彙を日常的に使いこなしてきた最後の世代が今も暮らしている。私たちの研究チームは長年にわたる言語学・人類学の共同調査によって、未知であったグイ・ガナ語の文化語彙をそれぞれの研究領域における調査の過程で別々に記録・蓄積してきた。本プロジェクトはこれらの資料を統合して、掘棒で地下茎を掘り出す女性。クロス・チェックをして記録の信頼性を確かめ、言語学的な整備をした上で、カラハリ狩猟採集民の文化語彙辞典を編纂する。 そもそも文化語彙とは何だろうか? 文化語彙とは「基礎語彙」と対で使われることが多い大まかな概念で、基礎語彙がどの言語にも共通して単語の存在が期待できそうな意味項目に該当する単語群であるのに対して、文化語彙とは言語ごとに存在が異なりやすい意味項目に該当する単語群を意味する。そして、言語ごとの単語の存在を条件づけているのがその言語社会の文化であるため、文化語彙と呼ばれる。 この文化語彙には、少なくとも二つのタイプが認められるだろう。一つは、その言語が話されている自然や社会の環境に特有の事物・事象やそれらに関する細かい類別が認識され、名詞・形容詞・動詞のような単語の形が与えられる(=「語彙化」)というタイプだ。「所変われば品変わる」で、その環境に特有の物事・事柄に単語でラベルが与えられる、つまり語彙化することによる文化語彙だ。例えば、稀有な地形、特殊な狩猟方法、その社会に特有の人間関係、生息する珍しい動物、その文化が好む対象を描写する多様な性質、これらを表す単語群があるなら、それらは文化語彙と呼べる。もう一つは、基礎語彙に該当しそうな単語がその社会・文化に特有の意味を持つ場合だ。つまり、世界中の言語が語彙化しそうな普遍的な意味項目の単語が、その言語社会に独特な意味の広がりや狭まりをもったり、文化的価値をもったりするタイプである。例えば、ある言語で「熱い」を表す単語が温度以外の描写に使われる場合(しかも、よくある「辛味」や「心理」の比喩ではなく、「熱い音」「熱いニオイ」のような非常に珍しい意味拡張)がこれに該当する。 グイ・ガナ語は、これら2タイプの文化語彙(「所変われば生まれる文化語彙」と「文化語彙となる基礎語彙項目」)が、いずれも豊かで独特である。私たちが編纂する辞典は、これら両方を包括する。研究の困難なカラハリ狩猟採集民の語彙に挑む グイ・ガナ語が属するカラハリ・コエ大語派の語彙研究は難しい。この事実は、すでに1970年代から指摘されている。それは、カラハリ乾燥帯で狩猟採集を生業とする人々の文化語彙が特異なためだ。そのせいで従来の調査で一般的に利用されてきた語彙調査票の多くの項目が意味をなさず、使い物にならないと言われてきた。そんな指摘から45年を経た現在に至るまで、この語派の狩猟採集文化語彙の精緻な言語学的記述はない。その意味で、本プロジェクトが挑む辞典編纂は文化遺産的な価値を持つだろう。 同時に本プロジェクトは、言語の普遍性や類型の理論にとって重要性を持つ。それは、従来の理論では捉えがたい現象が、グイ・ガナ語には多く観察されるからだ。グイ・ガナ文化語彙は、理論モデルにうまく当てはまらない珍しい現象の宝庫とすら言える。そういう珍しい現象を発見し、その説明を試みることは、現行の理論を改訂して人類の知識体系を刷新するための潜在力を持っている。 言語の普遍性や類型の理論は、過去約40年間に、世界中の言語からなるべく偏りなくデータ抽出する広域研究法の成功によって、格段の進歩を遂げてきた。その結果、世界の言語が広く共有する原理が数多く分かってきた。つまり、世界規模で見た言語の特徴の普遍的傾向の理解がめざましく進んだ。この成果の代表例はインターネット上でも、WALS Online (The World Atlas of Language Structures Online) (http://wals.info)に簡単に見ることができる。 ところが、この広域研究法では、世界の言語における珍しい特徴が例外扱いされ軽視されてきた。近年、この珍しい特徴に積極的に注目する新しいアプローチが、「稀少性の類型論」などの名の下に提案され、具体的な成果をもたらし始めている。稀少性の類型論という研究手法、つまり、「世4カラハリ狩猟採集民の語彙研究から言語の普遍性と多様性の理解へ中川 裕なかがわ ひろし / 東京外国語大学、AA研共同研究員

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