れたあとだった。これを数日繰り返し、それでも切符が買えず、途方に暮れていたときに、親切なあるイラン人が私の分の切符も買ってくれ、それで、何とか北部タブリーズ行きのバスに乗ることができた。 ところが、夜のバスでテヘランを抜け出して一息ついたのもつかの間、突如、「飛行機だ、飛行機だ」と乗客が騒ぎ出し、上を見るとイラク軍の戦闘機がくるくる円を描いて回っているのが見えるではないか。そこからヒューという音とともに、赤い糸を引くように爆弾が5、6発落ちてきた。運転手はハンドルを右に左にきったりしたが、幸い爆弾はバスから逸れた。あのときだけは生きた心地はしなかった。ただ、無事に生き延びた今となっては、戦時中のイラン社会を垣間見たことは、自分にとっては、非常に貴重な体験となっている。一方で、国営放送の戦争ニュースで使われていた革命歌が今でも時々テレビで流れることがあるが、それを聞くと、当時の恐怖が蘇り、一種のトラウマになってもいる。ヴィザとのたたかい 次の「たたかい」は1993年、イランの留学ヴィザを取るべく奮闘していたときのことである。すでに対イラク戦争は終わっていたものの、世界中を敵に回していたため、イラン政府の外国人に対する猜疑心は強く、正規の留学はなかなか難しかった。語学学校に通いながら、ヴィザの取得のために外務省にもしばしば赴くという生活であった。語学学校はテヘランの北の端の方にあり、一方、外務省は南の昔の王宮の方にあるので移動もたいへんで、さらに、テヘラン交通の基本である乗り合いタクシーを乗りこなす技術はまだなく(これも一つのたたかいといえるが)、ひたすらとろとろ路線バスに乗る毎日だった。とにかく留学できないと研究者としての自分の将来はないと思っていたので、プレッシャーは相当のものであったが、外務省の担当官は一向に要領をえず、また、大学の国際部も必ずしも協力的ではなく、学長に直訴の手紙を書いたり、高等教育省の苦情処理係に助けを求めたり、とにかくあらゆる可能性を探った。イランの役所はおもしろいところで、私のような外国人の学生でも簡単に中に入れ、さまざまな苦情を言うことができるのである。しかし、ヴィザの成否を握る肝心の情報省だけは、当然のことながら行くことができず、他の役所を通じて運動するしかなかった。今、思えば、イランの官僚制や文書行政の仕組みを体で知ったことになる。 貧乏だったので、ホテルの部屋も10ドルの風呂なしの一間で、ときどき7ドルぐらいに値下げしてくれた。小さなホテルで、働いているのは皆少数民族であった。フロント係はアルメニア人、レストランは西北部アゼルバイジャン地方出身のアゼリー・トルコ人、荷物運びをしているのはクルド人、といった具合だった。イランの縮図のようだが、歳が皆近く、ずっと一緒にいたので、仲良くなり、クルド人の兄ちゃんとは映画館で「ゴジラ」をペルシア語で見たりした。ヴィザの交渉は全く先が見えず、少し進展したと思うとぬか喜び、ということが多く、本当に消耗して、体重も激減、1988年当時滞在していたホテル。名前は「大理石」からバーバー・ターヘルという詩人の名に変わった。1993年当時、滞在していたホテル。一時期、閉まっていたが復活した。フェルドウスィー名物、両替屋。闇両替商もすぐよってくる。ついでに溶連菌に冒され、微熱が続くようになった。このときは結局ヴィザが出ず、3ヶ月少しで、失意の帰国を余儀なくされた。たたかいは続く 私の研究は、イランで手に入る、もしくはイランでしか手に入らないペルシア語で書かれた資料を入手して、それに基づいて近世・近代のイラン社会史研究をするというスタイルである。他の国の人にとってはイランへのアクセスがさらに難しいので、これはかなりのアドヴァンテージとなる。長期ヴィザについてはその後も苦しめられたが、少なくとも、短期滞在に関してはそれほど問題がなく、その次の「たたかい」は資料にアクセスできるか、複写を取らせてもらえるか、何枚までなら許されるか、ということであった。もちろん、研究上ではこれは非常に重要なことであり、役所の次官の面接を受け、一世一代の大勝負で許可を得て、それで研究が飛躍的に進展したこともある。ただ、資料については、一度だめでもあとで再トライしてうまく行くこともあり、上で述べたような、生きるか死ぬかとか、人生を棒に振るか、とかいうところまで追い詰められることはない。また、イランも昔に比べればいろいろなものが整ってきて、想定外の理不尽に出くわすことは少なくなってきた。今や、テヘランでは地下鉄が普通に走り、皆が4Gのスマホを使いこなすご時世である。 そのようななかで、フェルドウスィー広場に戻ってくると、過去のつらい「たたかい」の記憶が蘇り、身が引き締まる思いがする。あれほどひどい目にあってもやって来られたのだから、この程度のことで負けてはいけないとか、これまで払った犠牲を考えれば今の環境に感謝して、研究を続けなければいけないと、思えるのである。その意味で、フェルドウスィー広場付近は、私にとって原点を思い出すための聖地であるといえるのかもしれない。FIELDPLUS 2017 07 no.1819
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