フィールドプラス no.18
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エチオピア料理のレストラン(エルサレム)。て人口の二割を占めている。そのアラブ人のなかにはムスリムに限らずキリスト教徒やドルーズ派もいる。他方、世界各地から移民してきたユダヤ人には、ホロコーストを生き抜いたポーランドやドイツのユダヤ人もいれば、バビロン捕囚以来のコミュニティの一員だと誇りを持っているイラクのユダヤ人の末裔もいる。移民当初、ヨーロッパ出身のユダヤ人はドイツ語やフランス語など各地の言語を話し、イラクをはじめアラブ諸国から移民したユダヤ人の母語はアラビア語であった。食事をはじめ生活のすべてでユダヤ教の戒律を守っている人もいれば、宗教実践をほとんど行わないユダヤ人もいる。つまり、ユダヤ/アラブ、あるいは宗教・民族・言語の区別は曖昧で、対立構造は複雑に絡み合っている。イスラエル政府によるアラブ人家屋破壊に反対し、アラブ人とユダヤ人の共存を訴えるデモの参加者(テルアビブ)。 1966年イスラエルのアラブ人作家アタッラー・マンスールが母語のアラビア語ではなく、多数派言語のヘブライ語で小説を書き始めて以来、ヘブライ語で創作を行うアラブ人作家が登場する。そのうちの一人アントン・シャンマースが発表した『アラベスク』(1986年)は、イスラエルのみならず欧米でも注目を集めた。パレスチナを舞台に、20世紀初頭、成功を夢見てアルゼンチンに移民した若者、ベイルートからパレスチナに嫁いできた娘など、オスマン朝期から現代までおよそ100年あまりのアラブ人の伝統的な暮らしや人びとのさまざまな生が描かれた作品は、アラビア語の単語を散りばめた格調高いヘブライ語で書かれており、今では現代ヘブライ文学の傑作の一つと評されている。 この小説には、主な舞台となるファッスータ村の成り立ちを登場人物に語らせている箇所がある。僕たちの村はファッソーブという十字軍の城跡に造られた。そしてそのファッソーブは、司祭階級であるハリーム家が第二神殿の破壊の後に住み着いたユダヤ人の村、ミフシャタの跡地に築かれていた。彼らは十分の一税と安息年〈その時は土地を休耕しなければならない〉に付随する戒律を無効にした。そしてそれゆえ、審判によって四つの罰を受けた。疫病と戦争、飢饉、捕囚という罰を。 このファッスータ村の変遷のくだりには、イスラエル国家がユダヤ教の聖地であると同時に、キリスト教やイスラームの聖地で、古くからさまざまな権力が立ち替わり治めてきた地に誕生したことが重ねられている。レバノン国境に近いこの実在する村は、シャンマースの小説によって広くユダヤ人に知られることとなり、一躍有名になった。 母語=アラビア語の代わりに多数派/支配側の言語(「継母」の言語)=ヘブライ語を使って自分たちアラブ人の世界を描く彼らの試みを「言語戦争」と呼ぶ人もいる。アラブ人が書くヘブライ語の文学は、内容よりむしろ作品自体が含むアイデンティティの問題に話題が集中し、単なるプロパガンダとして批判されるエルサレムのユダヤ人地区にいたアラブ人女子学生。テルアビブ大学のオープン・キャンパスにやってきたアラブ人の高校生。ことも多い。実際、先のシャンマースは作品に端を発した論争に巻き込まれて筆を折り、ここ数年の若手人気作家の一人であったアラブ人作家サイイド・カシューアは、イスラエルでの将来に絶望し国を離れた。 彼らの挑戦は「負け戦」と言ってしまえばそれまでかもしれない。けれども彼らが小説を書くまでは、イスラエルの内部にいるアラブ人の存在はほとんど注目されていなかった。こうした作家たちをはじめ多くのアラブの文化人たちがヘブライ語世界に挑戦することによって、イスラエル社会の内部にアラブの文化が存在すること、その文化の豊穣さを人びとに気づかせたこともまた確かであり、こうした試みは映画、音楽、演劇の世界にも広がっている。 私が初めてイスラエルを訪れてからおよそ20年。暴力の応酬によるお互いの不信感からパレスチナとイスラエルの和平交渉は暗礁に乗り上げている。言語や文化の枠を乗り越え相互に越境することで、多文化を受け入れる素地を作る。ユダヤ人作家エトガル・ケレットも「紛争」の反対語は「平和」ではなく、お互いを理解した上の「妥協」だと語る。イスラエルの作家たちは、「ことば」を使って共通語=妥協点を探し続けている。言語文化の多様性が他者への寛容と想像力を生むことを信じて。* P16、17に掲載している写真はすべて著者撮影FIELDPLUS 2017 07 no.1817

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