世界各地から集まったユダヤ人と、もともとの住民であるアラブ人が暮らす多文化社会のイスラエル。バイリンガル/トリリンガルが当たり前のこの社会では「ことば」をめぐるさまざまな「衝突」に出会う。 「インディ・ハフサカ」(「私休みなの」) 「アハラン!」、「ヤッラ」(「やあ!」、「さあ、行こう」) 一つ目の表現は、大学のキャンパスで見かけたアラブ人女子学生の会話に出てきた。アラビア語で「私は持っている、~がある」の意味の「インディ」とヘブライ語で「休憩、おやすみ」の意の「ハフサカ」が交じった表現だ。その後も彼女たちは「シウール」(授業)、「メオノット」(学生寮)など、ヘブライ語の単語交じりでのアラビア語で会話を続けていた。ヘブライ語とアラビア語はもともと同じセム語系の言語で共通する表現や単語も多い。しかしイスラエルのアラブ人は、こうした共通点とはまったく別の文脈で多くのヘブライ語単語を交ぜて話す。 二つ目はユダヤ人が発したことばである。多少の知識があれば、「アハラン」がアラビア語のパレスチナ方言のあいさつで、「ヤッラ」は何かを始めるときや動き出すとき/せかすときのアラビア語の掛け声だということに気がつく。こうした表現をユダヤ人たちはスラングとして気軽に使っている。レバノンシリアハイファヨルダン川西岸地区テルアビブガザエルサレム死 海イスラエルヨルダンエジプトガザ地区「ことば」のモザイク イスラエルの公用語はヘブライ語とアラビア語だが、基本的にはヘブライ語の世界である。二つの公用語は決して対等ではない。けれども耳をすますと、街からはアラビア語などさまざまな「ことば」が聞こえてくる。例えば、小さいながらもエルサレムの旧市街にコミュニティを維持しているアルメニア人はアルメニア語を話す。エチオピア料理店ではアムハラ語が使われ、シリア語で典礼を行う教会もある。ユダヤ教の宗イェシバ教学校からは東欧で使われていたユダヤ人の言語イディッシュ語の囁ささやきが聞こえ、1991年のソ連邦崩壊を契機にやって来たユダヤ人が集住する地区にはロシア語世界が広がっている。バックパッカーの日本人観光客が、エルサレム旧市街の安ホステルで「ありがとう」が「シュクラン」(アラビア語)だと習って、それを数十メートル先のユダヤ人地区で披露して怪訝な顔をされた、というような話には事欠かない。 今では「国語」となったヘブライ語は長らく典礼語としてのみ使用されていた。それが建国以前のパレスチナのユダヤ人社会で、さまざまな障害を乗り越えて共通語となった。19世紀末、ユダヤ人には祖国が必要であると説いた「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルは、新たに誕生するユダヤ国家には公用語など必要なく、スイスのような複数言語が並存するべきだと語った。ここで彼の言う複数言語とはドイツ語や英語のことであり、当時まだ日常語として確立しておらず「話者のいない」ヘブライ語や、東欧のユダヤ人コミュニティで用いられている「ゲットー語」=イディッシュ語などは、ヘルツルの想定の範囲外であった。また、1920年代、パレスチナ初の大学となるはずだったハイファの工科大学は、講義言語を英語・ドイツ語にするかヘブライ語にするかで議論が紛糾したために開校が数年遅れた(パレスチナ初の大学は1925年開学のエルサレムのヘブライ大学)。ロシア食材を扱うスーパー(ハイファ)。ヘブライ語とロシア語が併記。イスラエルの道路標識。上からヘブライ語、アラビア語、英語表記。地 中 海紅 海バスステーション近くにあるエチオピア系の洋品・雑貨店(テルアビブ)。パレスチナ自治区「ことば」を武器として イスラエル/パレスチナは70年ものあいだ土地をめぐる争いが続く、誰もが知る紛争地である。一般的にはアラブ人とユダヤ人の戦いもしくはイスラームとユダヤ教のあいだの宗教紛争と捉えられがちなのだが、現実はそう単純なものではない。 ユダヤ人の国家と言われているイスラエルの市民には、イスラエル建国時に離散しなかったアラブ人もいさらに敬虔なユダヤ教徒の中には、聖なる言語であるヘブライ語で日常会話を行うことに対して反発するものもいた。つまり、ユダヤ人の間でもヘブライ語がユダヤ人の共通語にふさわしいかどうかは長らく意見がわかれていた時代を経て、国家の共通語となったのである。FIELDPLUS 2017 07 no.1816細田和江ほそだ かずえ / 人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター研究員、AA研特任助教たたかう 2「ことば」で「たたかう」
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