フィールドプラス no.18
17/36

沸々と闘志が湧き、いてもたってもいられなくなって試合の場に駆け付けたという。音楽は武術を行う人の心と身体に働きかけるのだ。一方、その身体の躍動と優美さは音楽によっていっそう際立つ。シラットはたたかうための技術であるだけでなく、見る人の心を動かし、魅惑するという点でも音楽や舞踊と接点がある。ムスリムのシラット芸能 タマ爺をはじめとするバリのヒンドゥー教徒社会では、音楽つきのシラット上演が減っているのに対し、ムスリムの集落では預言者ムハンマドの生誕祭(マウリッド)の際などに、今もシラットを演じている。枠太鼓ルバナがいっせいに打ち鳴らされる中、男たちが次々に観衆の前に進み出て、技を披露し、また互いに技をかけあって競う。シラットは舞踊と同様、祝祭をもりあげるエンターテインメントの一つであり、格闘技であると同時に芸術(スニ)でもある。人々にとって武術と芸術の近接性は何の不思議もないことなのだ。 同じくムスリムの芸能であるルダットはミリタリー風の衣装に身を包んだ男たちが、隊列を組み、シラットの型をつなげるように踊り、行進するものである。ルバナと大太鼓の伴奏で預言者ムハンマドを讃える歌、あるいはイスラムの歴史にちなんだ歌がにぎやかに歌われる。ルダットは武術の身体動作が集団舞踊に再編された芸能である。戦いに明け暮れた時代が終息して実戦的なシラットが不要になった時、かわりにシラットの美しさを強調したルダットが生まれたという説もある。ルダットの衣装や行進の様子、武術的な動作は勇敢な兵士のイメージと結びついているものの、敵を倒す、技を競うという格闘技の攻撃的な側面は抑制され、むしろ集団としての動きの統一感や一体感が強調されている。「たたかい」と芸能 そもそもインドネシアの芸能において「たたかい」はポピュラーな要素である。インド起源の叙事詩マハーバーラタやラーマーヤナを題材とする影絵芝居ワヤン・クリットも、その上演の約1/3は戦争の場面に費やされる。ワヤンの登場人物は弓矢を使ったり、超能力的な「知識」によって炎を燃やしたり、巨大な龍に変身したりしてたたかう。あるいはバリの儀礼的舞踊劇チャロナランでは、人に災厄をもたらす黒魔術の象徴としての死の女神ランダと、人を癒す白魔術の象徴としての聖獣バロンが終わりなきたたかいを繰り広げる。影絵芝居やチャロナランにおける「たたかい」はしばしば、真理(ダルマ)と不正義(アダルマ)、白と黒、ネガとポジのように、相反する力の拮抗として描かれる。スピーディな動きと高揚する音楽を伴うスリリングな戦闘場面は上演全体のクライマックスでもある。しかし多くの物語は単純な勧善懲悪で決着しない。なぜなら世界は常にそのような「たたかい」のダイナミズムの中にあると考えられているからだ。 インドネシアの芸能に限らず、多くの映画や演劇には戦闘場面があり、観客を釘付けにする。それはたたかう行為の中に、死への恐怖とその克服という強烈で普遍的な要素があるからであり、また人々がそうした「たたかい」に自らの体験するさまざまな対立や、困難、葛藤を重ねあわせるからだろう。終わることのない戦いに挑み、鍛錬された身体のわざによって死や痛みを超越しようとすること、そこに人は美しさを見出す。そもそも「美」とは、そのような際立った生命力に対する肯定と称賛から生まれるものではないだろうか。そう考えれば、本来はたたかうための技法である武術の、洗練された身体の動きを美しいと感じるのも不思議はない。その身体が生み出す躍動感と輝きにおいて、武術と舞踊はたしかに交差しているのである。ムスリム集落におけるルダットの上演(バリ島東部クルンクン県、ゲルゲル集落、2015年12月)。ムスリム集落におけるシラットの演武(バリ島北部ブレレン県、プガヤマン集落、2010年2月)。FIELDPLUS 2017 07 no.1815

元のページ  ../index.html#17

このブックを見る