5FIELDPLUS 2017 01 no.17中に祝福の聖水を注ぎかける(写真3)。これ以降、その家畜の所有権は人間から自然界の精霊や神仏へ移り、主人はこれを屠ほふったり売却したりせず、当該個体が自然死するまで群の中で安寧に過ごさせなければならない。私たちが調査でお世話になった牧畜世帯の主人は80頭余りのヤクを放牧していたが、その中の一際目立つ立派な体格をした一頭がツェタルを施された個体(以下「ツェタル畜」と呼ぶ)だった(写真4)。この個体は12歳の元種オスで、主人は家族の平安無事を祈るため、これを自分の部族の守護神である山の神に捧げ、荷役など一切の労務からも解放して穏やかな余生を過ごさせているのだという(写真5)。ツェタルの持続性と近年の変化 ツェタルの眼目は、仏教徒が保持すべき最重要の徳目である「慈悲」と「利他」の精神を、本来的には「経済動物」である家畜に対して発揮し、家畜の所有権を自ら放棄することで神仏の加護を得ようとする点にある。ここには、「すべての命あるもの(=有うじょう情)は輪りん廻ねの中を無限に循環する存在として相互に関係を持っている」と説く仏教の教説が大きく反映されている。苛烈な気候条件に置かれたチベット高原の牧畜社会において、家畜への依存度は他の低地社会とは比較にならないほど高く、畜群中に屠殺も売却もできない個体が増えることは経営上マイナスでしかない。だがそれでも、自分たちに日々の糧を与えてくれる家畜を単に「モノ」とみなすだけでなく、同じ輪廻の境遇の中で相互に関係しあって生きる「同類」として並列化する思考様式は、牧畜生活の精神性の中に長らく息づいてきたのである。 このことは、1951年の中国によるチベット併合から今日まで、社会主義イデオロギーの荒波を経験してきた牧畜社会において、ツェタルが一定の強度を保って継続されてきたことからも納得される。現地で出会ったお年寄りたちに聞くと、文化大革命(1966─76年)の時代には一切の宗教活動は停止し、僧侶はすべて還げん俗ぞくさせられ、人々は密告を恐れて念仏を唱えることも数珠を持つこともなくなったという。だがそんな宗教信仰の空白状況の中でも、牧畜民のもっとも身近な日々の糧である家畜に対しては、元僧侶だった人に密かに儀礼を施してもらい、自分だけがわかる形でその家畜をツェタル畜として認知していたという。どんなに迷信として排撃されても、畜群の中にツェタル畜が一頭もいない状態は不安であり、放牧地に棲む土地の神々に非礼を働くことになる。形式はどうあれ、群れの中にツェタル畜を置いておくことは安心の種だった、と彼らは語る。一切の儀礼的要素を「迷信」として社会から駆逐し、家畜を純粋な「消費財」と見なすことを人々に強要した時代状況の中でも、家畜を自らと同列の「有情」と捉える思考様式は温存され、その基層に横たわる牧畜民と家畜との象徴的なきずなが断たれることはなかった。 翻って、今日の牧畜社会では、ツェタルは大々的に復活し、畜群中のツェタル畜の比率は人民公社による集団化以前の割合を大きく上回っている。調査地では、著名な高僧が主催する法要があるごとに、多い時には一世帯で一度に数十頭もの家畜にツェタルを施す、といったケースがみられる。それは各人の仏法への帰依の度合いを示すことになり、施主が獲得する社会的な威信にもつながっている。総じてみれば、これは家畜を介して仏教アイデンティティが強化されるという社会現象であり、昨今チベット全土に広まりつつある宗教ナショナリズムの高揚とも軌を一にする現象である。この意味で、ツェタルは今日のチベットにおける宗教や政治の状況と一般の牧畜社会を結ぶ媒介の役割を果たしていると見ることができる。人間─家畜関係をめぐる今後の展望 現在青海省では、畜産品の市場価値を高めるため、為政者や研究者を中心に、「チベット人の原始的な放牧様式を近代的畜産業へと転換させる」ための政策論議が盛んに行われている。だが、冒頭にタマコの例で示したような「酪農経営者の社会的責務」を喚起させるような巨大な消費者市場も、福利厚生を必要とする会社組織も未形成のチベットでは、家畜の品質改善と生産効率の向上という畜産管理の近代化はいたずらに家畜の「道具性」のみを強化する方向へと作用しかねない。ここまで見てきたように、牧畜民にとって家畜の個別性を認めることは、ひとつの循環する世界の中で、互いに深く関わりあう主体として相互を位置付ける仏教的な世界観に下支えされており、そのことが牧畜民自身のアイデンティティ形成にもつながっている。中国の研究者がともすれば強調しがちな家畜の物質的側面だけでなく、長期にわたって持続してきた牧畜民と家畜との精神的・象徴的なレベルでのつながりにも十分配慮することが肝要ではないだろうか。写真4 山の神にツェタル畜として捧げられた12歳のアブドゥ(元種オスだったが繁殖能力の低下に伴って去勢され、引退した個体の呼称)。この地方の方言では山の神に捧げたツェタル畜を「ショオ」と呼んでいる。立派な角と茶褐色の毛色が印象的である(撮影:別所裕介)。写真5 山の神は仏教到来以前からチベットに棲む土着の自然神である。家畜とともにある牧畜民の暮らしを身近なところから見守るこのローカルな土地の神に対し、彼らは毎日朝と晩の2回、香木を焚き上げて火中に供物を投じ、ほら貝を吹き鳴らしてその加護を祈念する(撮影:別所裕介)。
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