FIELD PLUS No.17
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4FIELDPLUS 2017 01 no.17多くの人類社会において家畜は「生いけ贄にえ」として神に捧げられてきた。だが私たちが調査地で見たものは、増殖する「殺せない家畜」たちだった。家畜への接し方は、チベット牧畜民のアイデンティティの根幹を支えている。いる。駒場が、「お袋が一頭一頭個性を把握して可愛がってるからちょっとやそっとの故障じゃ牛を処分したりしない…農家によって処分の線引きはそれぞれなんだ」と語る一方、タマコは「ケガしたとか乳房の調子が悪い、効率的じゃない牛は即処分ね…農業は慈善事業じゃないのよ? …経営者志望なら消費者への安定供給と、従業員の生活もきっちり考えないと」と話す。いずれの発言にも深く感銘を受けた八軒は、個々の酪農家が仕事の力点をどこに置くかによって、家畜が「道具」にも「愛情の対象」にもなりうることを知り、その揺れ幅自体が酪農に携わる人々の人間性の深みを形成する土台となっていることに気付く。 現代の高度に産業化された社会でなくとも、このような「生き物の命を奪うこと」に対する葛藤は広くみられる。いやむしろ、家畜と密接にかかわる伝統的な生業コミュニティにおいて育まれてきた動物の「道具性」と「個別性」に対する日常的な家畜の「道具性」と「個別性」 現代社会に暮らす私たちにとって、ペットや家畜といった動物たちはかけがえのない「仲間」なのだろうか、それとも単なる「道具」に過ぎないのだろうか。青少年層に人気の高い漫画『銀の匙 Silver Spoon』第2巻(荒川 弘、少年サンデーコミックス)では、「生き物の命を奪うこと」をめぐって悩む主人公(八軒)を軸に、利益を度外視した愛情を注ぐ零細酪農家(駒場)と、市場への貢献を最優先として事業を拡大する大規模ファーム(タマコ)という異なる表情を持つ酪農家が鮮やかに対比されて感性こそが、今日の大量生産・大量消費のマーケット構造の中に生きる私たちの「命を軽々しく扱うこと」への恐れや不安を下支えする基礎となっていると考えることもできよう。牧畜民の「ツェタル」 人類社会の大部分において、家畜は神との意思疎通を図るための「生贄」として捧げられることが常であった。だが、仏教の影響を強く受けたアジア東部地域では、家畜を「殺さずに生かす」ことを共同体全体の価値にしようとする歴史的な営みが続けられてきた。チベットで観察される「ツェタル」と呼ばれる家畜をめぐる慣行はまさにこの典型を示している。 ツェタルとは、チベット語で「(生き物の)命を解き放つ」という意味であり、中国や日本で「放ほう生じょう」と呼ばれる供養式に近似する。チベットの牧畜民は、病気治し、身内の不幸、出産、家畜の失踪など、生活上の出来事と幅広くかかわる領域でこのツェタルを実践し、神仏の加護を祈念する。ツェタルの挙行は所有する家畜の中から優良な個体を選定し、吉日を選ぶことからはじまる。当日、選ばれた家畜の肩もしくは耳に「ツェタク」と呼ばれる五色の布飾りを結わえ付け(写真1、2)、真言を唱えながら背現代チベットにおける人間と家畜の宗教的関係別所裕介べっしょ ゆうすけ / 京都大学白眉センター特定准教授、AA研共同研究員写真2 肩の毛にツェタクを結わえ付ける(撮影:別所裕介)。写真1 ツェタルの対象となる家畜につけられるツェタク。カラフルな布片に羊毛で編んだ紐がつけられている(撮影:津曲真一)。写真3 ミルクと水の混合液を背中に注ぎかける(撮影:別所裕介)。

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