FIELD PLUS No.17
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29FIELDPLUS 2017 01 no.17ナツメヤシ(デーツ)畑をぬう道。が残した、あるいは彼らに関して残された資料には大きな、そして巧妙な「うそ」が少ないように思われるからである。 以下、最近出版した、ラシュダというエジプト西部砂漠のダハラ・オアシスの村についての著作、Rashda: The Birth and Growth of an Egyptian Oasis Village(Hiroshi Kato and Erina Iwasaki, BRILL, 2016)を取り上げ、このような私の思索遍歴を振り返ってみよう。アブー・スィネータ村との「出会い」 話は1984年、エジプト国立文書館における1853/4年付の長い訴訟文書との出会いに始まる。それは、首都カイロから車で1時間半にあるアブー・スィネータという村の村長の行状に関する住民からの20件にもわたる告訴であった。この訴訟の背景にあったのは、村を二分する村長職をめぐる権力闘争であり、その内容は、そこにみられる村民の複雑な人間関係と国家権力との関係において、日本人の私にとってあまりにも生々しく、衝撃的であった。 私の驚きと新たな出会いはさらに続いた。この訴訟についての論文を書き上げた後、何気なくその村を訪れた私は、この事件が、細部はデフォルメされているものの、ほぼ文書に残された内容で伝わっていることを知ったのである。エジプトでは100年、200年前は歴史ではない。そこで、長老から事件についての聞き取りを始めた。その聞き取りと訴訟文書の記述とをつきあわせて書いたのが、『アブー・スィネータ村の醜聞』(創文社、1997年)であった。以後、私は歴史研究における聞き取りの重要性を知り、それを研究手法の一つとして取り込んでいった。 私としては、このアブー・スィネータ村との出会いを突破口に、エジプトの農村研究を深めたいと思った。それには、農村でのフィールド調査が必要である。ところが、当時それは不可能であった。外国人が村で調査するには、行政・警察・軍当局からの許可を必要としたが、許可が下りるとは誰もが考えなかった。 しかし、1990年代に入って、エジプトは本格的な「開放経済」の時代に入り、それに伴って、徐々に研究環境も変わっていった。その過程で、2002年、まさに瓢箪から駒のように、思いもかけず、エジプト中央統計局(CAPMAS)との合同での世帯調査が可能となった。そして、調査村の一つとしてアブー・スィネータ村を含めてもらった。 かくて、よき調査のパートナーを得たこともあって、CAPMASとの共同による世帯調査とともに、CAPMASが所蔵する社会経済統計とデジタル地図などの地理情報の体系的な収集が始まった。と同時に、付随的で不十分ながらも、我々も独自に村でフィールド調査を行なうことが可能となった。こうして、エジプト社会研究の資料として、統計、地理情報、フィールド調査結果が新たに加わった。ラシュダ村との「出会い」 そして、この延長線上にラシュダ村との出会いがあった。私はかねてから辺境のオアシスの村での調査を望んでおり、それをCAPMASとの共同研究を機会に実現しようと思った。そのために、2005年、調査村を決めるためにオアシスへの視察旅行を行った。 ラシュダ村との最初の出会いはいまもって鮮明に覚えている。村に車を乗りつけたときは、日没時であった。疲れて、もうどこの村でもいいやと、投げやりな気分であった。そこに突然、ナツメヤシに囲まれ、灌漑ポンプがある丘陵が目の前に現われた。とっさに、これは古く調査に適した村だと直感し、調査地をここにしようと決めた。それがラシュダ村であった。 ところが、その直感は大間違いであった。ラシュダは古い村ではなく、19世紀以降にできた新しい村だったのである。しかし、何が幸いするか分からない。この誤った直感に基づく選択が、その後の農村調査を容易にした。新しい村だからであろう、村の居住空間は開放的であり、村民の外国人への対応も比較的フランクだとの感じを受けた。有能なインフォーマントにも出会うことができた。 村民は主として、19世紀以降、周辺の村から水を求めて移住してきた農民の子孫である。しかし、他の村に比べて地下水が比較的豊富なため、ラシュダ村は新しい村にもかかわらず急速に成長し、現在ではダハラ・オアシスにおいて行政府が置かれている町に次いで多い人口を持っている。歴史研究者にとっての幸運は、ラシュダ村が新しい村であったため、村の歴史をその形成から現在まで、聞き取りとフィールド調査のほか、統計や地図を使って追うことができることであった。 調査の過程で、有力者が所蔵する村の古文書を見つけることもできた。これは驚きであった。エジプトの地方研究における最大の障害は、地方に残されている古文書が極めて少ないことである。とりわけ、カイロから遠い地方について、このことが言える。ところが、ラシュダ村の場合、大半が19世紀以降のものだとはいえ、多くの古文書が残されているのである。 かくして、歴史書、法令、未刊行の歴史文書、聞き取り調査、アンケート世帯調査、フィールド調査、統計、地理情報に、村の有力者に残された古文書が加わり、これらさまざまな資料を駆使して、ラシュダというオアシス村を多角的かつ包括的に捉えることを目的とする、先に指摘した著作が書かれることになった。ラシュダ村周辺の井戸分布に関するデジタル地図。浅い井戸はすぐに涸れる。そこで、地下水脈を探るためにも、これまでの井戸の立地を把握することは重要である。近年、政府によって深く掘られた井戸(政府井戸)の一つ。村民との意見交換会。我々の調査結果を報告し、それに対する村民の意見を聞く会をもった(ラシュダ村青年センター、2016年9月8日)。投資井戸民間井戸政府井戸地表泉ローマ(古)井戸

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