24FIELDPLUS 2017 01 no.17 本を開くと、まず口絵の36枚ものアフリカ各地の食べ物にまつわる写真が目に入る。わくわくしながら見ていくと、「イモムシのスープ」が混じっていたりする。読者は読み進むうちに、アフリカ各地の何気ない料理のひとつひとつに込められている無文字社会の歴史へと誘われてゆく。 本書の序章では、過去半世紀の日本のアフリカ研究を振り返って、歴史学の立場から「農業や農民に真正面から向き合」った研究がこれまでほとんどない(12頁)ことが指摘される。歴史学としてのアフリカ史には、文字資料が得られない時代・地域がほとんどという難しさがある。しかし、本書は、この点を逆手にとって、人類学、民族植物学、農業経済学、歴史学などの研究者との学際的な協働によって「文字資料が伝え得ぬものも含めた、過去における人類の営みの総体としての歴史」(12頁)に迫ろうというのである。 中身は総説3章と5部14章からなる。総説「アフリカの食と農を知るために」では、アフリカの食の全体像を捉える枠組み、作物の歴史、食と農業の歴史研究の方法論がそれぞれまとめられている。第1章では、当事者として料理をする立場、そして食べる者の目線からアフリカ全体の食を捉える見取り図が提案される。第2章は、15種類以上の作物が主食とされてきたアフリカの作物生産史を概観し、主食作物がダイナミックに変化してきた様子を描き出す。第3章では、食と農の歴史にアプローチするための文理融合の方法論が論じられる。歴史を食べる経験研究者の本棚大石高典おおいし たかのり / 東京外国語大学これは、グルメな本である。歴史という切り口からアフリカまるごとの食と農業を捉え直そうという大胆で壮大な試みが展開される。 各論では総説を受けて、時空間を自在に超えた議論が展開される。第Ⅰ部「環境との関わり」では、まず湿潤アフリカで広く栽培されるバナナを事例に作物生産の集約性の地域差がなぜ生まれるのかが議論され、次に乾燥地のナツメヤシ栽培を事例に異なる時空間スケールでの自然と人為の重なり合いとして立体的に農業史を描き出す試みが紹介される。そして東アフリカにおける農牧関係の再検討からは、牧畜と農業が併存するなかで農業生産だけに回収されない、牧畜にも高い価値を置く世界観が示され、それを捉えるためにはどんな史観が必要なのかが論じられる。第Ⅱ部「食の基層を探る」では、有毒キャッサバの毒抜き技術、文字資料、食の嗜好性などを手掛かりにしたユニークな食文化史の探究方法が提示される。第Ⅲ部「グローバリゼーションのなかで」では、植民地期における商品作物の導入にともなう食システムや農業生産の変容に焦点が当てられる。第Ⅳ部「農村から見る」では、急激な気候変動下での食料確保や、耕作限界状況での難民の作物生産を事例に、アフリカ農民社会が育んできたフードセキュリティを支える仕組みが示される。第Ⅴ部「現代社会を理解する」では、農業政策と自給農業の位置づけやランドグラブ(土地収奪)など、アフリカ諸国の独立前後から現在までのグローバルな流れのなかでのアフリカの食料主権に関わる問題が議論される。以上を通じて、自然環境と食文化の関係が、環境決定論で理解できるような安定したものではなく、むしろきわめて動態的であることが示される。 食からみたアフリカ史は途方もない広がりを持つが、本書は「主食」や「自給農業」に焦点を当てることによって、大雑把であってもアフリカ全体の歴史に網をかけることに成功している。随所でみられる異なる地域間や時代間の大胆な比較は、食という切り口からの地域研究のポテンシャルを雄弁に物語っている。本書の着眼の中心はあくまでも農耕民の食事や生業にあるが、常に狩猟採集や牧畜など他の生業との関係性の中で食や農が語られている。アフリカ研究全体にインパクトを及ぼすことは必至であろう。食欲と知的好奇心を刺激してやまない本書を貫いているのは、長期のフィールドワークを行う中で、生活者としてアフリカ人と共に栽培し、料理し、食べ、生き延びてきたことに裏打ちされた著者たちの実践的な眼差しと態度であると思われる。これもまた、読み手に必ずや伝染することであろう。フィールドワークと歴史研究の融合環境決定論を超えた食のダイナミズム石川博樹・小松かおり・藤本 武 編『食と農のアフリカ史――現代の基層に迫る』(昭和堂、2016年)蒸しても堅いバナナをつぶすのは手間と労力がかかる。カメルーンの村でまだ熱いバナナを根気よく搗いている様子をみるたび、「料理は愛がなくては作れない」という恩師の一人からよく聞かれる言葉が腑に落ちる(撮影者:大石高典)。
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