FIELD PLUS No.17
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旅の目的は何か。なぜ歩くと聞かれても… 私が予備調査を始めた頃、徒歩巡礼者に「なぜ歩いているんですか」とよくたずねた。すると彼らは一様に、冗談で混ぜ返すか、空々しい定型化したセリフで答えた。後に分かったことだが、彼らは動機やきっかけについては語れても、なぜ現在もなお歩き続けているのかうまく説明できないどころか、「なぜ」「何のために」といった問いが、歩き続けるうちに曖昧になるというか、重要でなくなってくるのだった。さらには、ゴールとされるサンティアゴ大聖堂や大西洋岸の岬まで無事歩き通した人々は達成感を露わにするどころか、一様に徒歩旅行の「中断」を惜しむ語りをしていた。そうか、道を歩く過程で目的がどうでもよくなる、それがサンティアゴ徒歩巡礼なのだな。 しかし事はそう単純でもなかった。歩く目的も目的地もそれ自体は重要ではないのに、彼らは任意の場所から必ず大聖堂のある西へ向かって歩いた。大陸の東を目指せば望むところまで進んで行けるだろうのに、そちらに向かう人は、多くのリピーターを含め皆無であった。彼らは好き勝手な方向ではなく、必ず西の大西洋岸に突きでた岬やサンティアゴ大聖堂を目指して歩き、そこに着けば飛行機やバスで帰宅した。「目的」の重要度は低くてもなお、永遠の流さす離らいではなく、一つの極としての終着点が必要なのだ。その意味でこの「徒歩巡礼/旅行」はやはり、流浪の旅ではなく、終わりが設定された旅なのだ。歩く身体と場所の結びつきと、そこから見えてくる世界 歩いて旅することは、越境的に暮らすことや、農作業を営むのと同様、地上における存在の仕方の一つでもある。場所との身体的な関わり方が異なれば、思考のあり方や生きる世界も異なる。フィールドでの出来事を引きつつ分かりやすく言うなら、こういうことだ。 ある日歩きながら調査していた私は、小さな村のバルに立ち寄り、今しがた歩きながら聞いた話を、隣にいた年配の男性にした。「このあたりの野原を抜けると、森の中で虫の声を聴きながら泊まれる小さな宿があって、その脇にある泉に足を浸せばサンティアゴまで怪我なく歩けるらしいですよ」。すると隣町に何十年も住んでいるというその男性は、「ここから(約10km離れた)隣町までは宿や森どころか、何にもない荒地だぞ」と笑った。その後私は何とも重い気分で野っ原を歩き進めた。しばらくすると、遠くにわずかばかりの林と小さな建物が見えてきて、道すがら知り合った人たちがセミの声を背に足を水場に浸していた。見知らぬ土地を徒歩のペースで行けば宿も水場も在るが、日常的に車で移動する人にはそれらは存在しないも同然なのだ。場所と身体の関わり方が違えば、世界の見え方が違う上、思考のあり方も違うものになる。調査方法は研究者が決めるもの? 道という一風変わったフィールドで常に移動する人を研究の対象としている私だが、土地に身を晒さらし、人々の日常に入り込みながら物事の自然な生起を捉える「古典的な」フィールドワークのやり方を大切にしたいと考えている。しかし他方でこのように考えることもある。研究者の数だけフィールドワークのやり方があると冒頭に書いたが、もしかしたらそれは、フィールドワーカーの個性や意向によるものというより、(調査者自らをも含めた)人の動き方や土地の状況、そして仕方のない事態といった諸々の条件の絡みあいのなかで結果的に生じた「フィールド」固有の調査方法ということなのかもしれない、と。19FIELDPLUS 2017 01 no.17「サンティアゴへの道」は、舗装路や農道のほか、徒歩によって踏みしだかれ、地元住民による草刈り等でかたち作られる道もある。サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂。オブラドイロ広場に面するバロック様式のファサード。道の途中にある瀬。歩く人(だけ)のための足場がある。道中で出会った徒歩巡礼者たちと筆者。長い距離を歩くから、腱炎を起こす人も少なくない。腫れ上がった足を投げ出す徒歩巡礼者、記念にそれを撮る顔見知りの徒歩巡礼者。大聖堂の裏も広場になっており、大道芸を披露したり人が集まったりするのに適した場所だ。

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