8FIELDPLUS 2017 01 no.17私はチベット高原で暮らす普通の牧畜民家庭で生まれ育った。伝統的な黒テントに暮らし、牧畜社会を自ら体験してきた。時代の変化や政策などにより牧畜民の暮らしや文化が急激に変化しつつある今、私たちは岐路に立っている。本人の漫画家に描いてもらった家畜の分類語彙の図解イラストである。「さすが漫画大国日本」と評判になった。ちょうど彼ら自身も牧畜文化が消滅の危機に瀕していると感じていたようで、私たちの研究にも理解を示してくれるようになった。 間の人 この研究チームで私は、研究される側であり研究する側でもある。調査に加わりながら、調査対象の家の手伝いもした。時にはチームから聞き取り調査を受けることもあった。 日本人研究者はみな仕事熱心で、現地の牧畜民たちが、「島国からこんな海抜の高いところに来て、毎日大量の仕事をすると病気になるよ」と心配するほどだった。彼らは朝から晩まで一所懸命調査し、ノートをとったり、調査票に書き込みをしたりなど忙しい毎日を過ごしていた。私自身は自分の文化や生活をよく知っているはずだが、実は知らないことも多く、また当たり前すぎて考えたことのないことも多々あった。牧畜民の生業や文化について研究したことは私にとって大きな収穫だった。私はかつて牧畜民だった 子供のころ、ヤクの毛で作った毛織の黒テントで暮らし、四季によって移動する生活を送っていた。多くのことは今でも記憶に残っている。初めて放牧の仕事をしたのは6歳の時だ。当時私の家には、羊が300頭ほど、ヤクが100頭ほどいて、小学校に上がるまでの2年間、毎日牧童として過ごした。 一番の楽しみだったのは夏営地(ヤルサ)への移動であった。なぜならばそこに行けば多くの仲間たちと遊べるからだ。移動の前日から準備をし、出発前夜は雨が降ってもテントを畳んで外で寝る。出発は夜明け前で、ヤクに荷物を載せて20−30km離れた移動先に向かう。ヤルサでの6−10 チベットの学問は伝統的に仏教を中心に発展してきたことから、牧畜民や農民の民俗語彙の研究はなおざりにされ、辞書にもわずかしか載っていない。その一方で今チベットでは、言葉や食生活、仕事、衣服などあらゆる面で劇的な変化が起こっており、伝統的なものや民俗語彙が目の前で失われつつある。牧営地にやって来た海外の研究チーム そんな折、チベットの牧畜文化をめぐる社会的状況や、家畜管理、衣食住にまつわる家事労働など、あらゆる分野の事がらを記録した辞典を作る共同研究が日本で立ち上がった。研究チームは調査経験の豊富な研究者ばかりで、そこに加わった私は現地調査では毎日学ぶことが多く楽しかった。しかし、現地の人々は、私たちの研究についてよく理解できなかったようだった。「わざわざ日本から学者を連れてきて、仏教の勉強じゃなくて牧畜の研究? 我々が毎日やっている牧畜を研究して何の価値があるのか。もっと意義のあることをやったら?」と言われたものだ。 しかしその後、研究成果の一部が巻頭特集として掲載された雑誌『SERNYA(セルニャ)』(PROFILEページの補遺参照)を現地に持っていくと、現地の人々はみな目を見張った。特に注目を集めたのが、日歳くらいの子供たちの仕事は、1歳の仔ヤク(ウィル)と2歳の仔ヤク(ヤル)をまとめて追っていく放牧(ウィルズ)である。ヤルサには、周辺地域からチベット人や漢族の農民たちが採れたての野菜を運んでくる。私たちはその野菜と、自分たちの生産したバター、チーズ、羊の毛皮などを交換するのだ。最初のうち、牧畜民たちは「野菜は草だ」と断言して食べようともしなかったが、いつの間にか麺料理(トゥクパ)に刻んだネギを散らして食べたら美味しいという噂が広まり、私も初めてネギを口にしたのだった。牧畜民の主な食べ物は、大麦の麦こがし(ツァンパ)、ヨーグルト、ヤク肉や羊肉である。つぶした芋や豆粉などとバターを混ぜて作るニョクという料理もよく食べる。 冬は肉の保存に適した時期なので、家畜を屠ほふってグンチイ(元来冬の食べ物という意味だが、ここでは冬に家畜を屠ることを指す)をする。雌ヤクは屠殺対象としないことが多い。なぜなら私たち牧畜民は雌ヤクの乳を毎日飲んで暮らしているので、自分たちの母のようなものだからである。家畜を屠殺する前には、灯明をともし、マニ車(中に経文が入っており、回すと功徳を積むことのできる法具)を家畜のそばで回し、読経する。そして革のベルトか紐を使って家畜の鼻と口を縛って窒息させて屠る。5人家族の場合、夏に羊を1頭、冬は2頭程度のヤクを殺す。グンチイをするたび、母が読経しながら泣いていたのが今でも忘れられない。 その後、学校に上がっても、夏や冬の休暇には実家で放牧をした。それは高校まで続いた。1999年、わが家は家畜を親戚に預けたり、売ったりして、町に引っ越した。2005年になると、「生態移民」という政策が実施され、草原の生態環境の回復と保護のためと称して、多くの牧畜民が町へと移住させられ、牧畜民を取り巻く環境は激変した。黒テントから固定家屋へ 牧畜民の伝統的な移動式住居である黒テントは、チベット語で「ラ」と呼ばれる。ラは一般の住居としてはもちろん、僧院や軍営として、また巡礼などの旅にも用いられた。用途に応じてさまざまな大きさと種牧童だった私の目にうつるものナムタルジャ滋賀県立大学大学院博士後期課程、AA研共同研究員ヤクに荷物を載せて牧営地を移動する。最近はトラクターも使う。
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