FIELDPLUS 2016 07 no.1628フロンティア文学を通して出会うチベット 星 泉 ほし いずみ / AA研 小説ほど複雑な世界を複雑なままに伝え、他者への想像力を育むことのできる媒体はないのではないだろうか。チベット文学の翻訳・紹介を手がけている立場から、チベットのリアルに出会える文学の世界へとご案内する。チベット・アムド地方のとある山村にて、凍った川を渡る羊たち。草の少ない時期だが、山への放牧は欠かさない。ラシャムジャ氏の故郷であり、氏の長編小説の舞台でもある。チベット文学研究会による訳書。最新刊の『ハバ犬を育てる AA研で2016年1月に開催された国際シンポジウム「チベット文学と映画制作の現在」にてチベット語で講演を行うジャバ氏。小説家としても著名。鮮烈な出会い 私がチベットの現代文学と向き合うことになったきっかけは、ちょうど世紀の変わり目の頃に出会ったあるチベット人留学生だった。彼は研究テーマに関して悩みを抱えており、相談にのっていてもどんよりとした空気になることが多かった。そんなある日、ふと文学の話題になった。すると彼は「チベットにも素晴らしい作家がいるんですよ」と堰を切ったように話しだした。チベット現代文学の祖と言われるトンドゥプジャ (1953−1985)のことだった。若くして自死を遂げたため、作家としての活動期間は数年と短いが、当時の若者に絶大な影響を与えた。彼はトンドゥプジャの小説や詩について熱く語った後、代表作である詩「青春の滝」を朗々とそらんじてくれた。彼の中学高校時代、同級生はみなこの作家の小説や詩に夢中になり、憶えた一節を同級生と交互に朗唱しあっていたという。この日私は、チベット現代文学の黎明期の熱気を垣間見たような気がして、その時代のことをもっと知りたいと思うようになった。 こうして関心をもって初めて、チベットにも詩人や作家がたくさんいることや、出版も盛んであること、雑誌や単行本を通じて小説や詩がかなり読まれていることを知った。小説を読んでみると、チベットの山村の人々の暮らしぶりから、若者たちの恋愛や諍い、親子の確執、ろくでなし男の生き様に至るまで、当たり前のように描かれていた。実は長年チベットの研究をしてきた私も知らないことだらけだった。愕然とした私は、貪るように小説を読んだ。 徐々に、こういう小説こそ翻訳すべきだという強い思いを抱くようになった。小説の持つ強いイメージ喚起力は、人の頭の中に新しい世界を構築しうる強烈な影響をもたらす。「秘境」というイメージが先行し、伝えられることの少なかったごく普通のチベットの姿を、翻訳小説を出版することでより多くの人にリアルに届けることもできるのではないだろうかと思ったのだ。 その後、志を同じくする仲間とともに読書会を始め、現在ではチベット文学研究会という構成員4名の小さなグループで、翻訳をしたり、作家のインタビュー記事を書いたり、といった活動を進めている。現代文学の誕生 ここでチベット文学について簡単に整理しておこう。小説や自由詩のようないわゆる現代文学はチベットにとって新しいもので、30年ほどの歴史しかないが、古くから口承文芸の文化を発展させ、千年以上前から固有の文字を持ち、他の文化圏との交流を絶やさなかったチベットは、豊かな文学的土壌を育んできた。 口承文芸の世界では、英雄叙事詩を筆頭に、歴シガツェゴルムド四川省雲南省チベット自治区新疆ウイグル自治区中華人民共和国ネパールインドミャンマーブータン青海省甘粛省ラサチベット人居住域西寧成都チベット現代文学の祖、トンドゥプジャ。邦訳作品集に『チベット文学の曙─ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』(勉誠出版、2012年)。写真は『トンドゥプジャ著作集 第3巻 評論』(民族出版社)より転載。映画監督としても活躍するペマ・ツェテン氏。近年ではヴェネチア国際映画祭にも正式招待されるなど国際的な評価も高い。チベット語と漢語の小説を集めた邦訳作品集『チベット文学の現在─ティメー・クンデンを探して』(勉誠出版、2013年)がある。若手ナンバーワン作家の呼び声高いラシャムジャ氏。筆者が翻訳を手がけた長編小説『チベット文学の新世代─雪を待つ』(勉誠出版、2015年)がある。写真は本人提供。
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