FIELD PLUS No.16
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21FIELDPLUS 2016 07 no.16たのに対して、植民地期には識字率の向上とマスメディアの普及によりジャウィの大衆化が進んだ。現代マレーシアにおけるジャウィ 第二次大戦後にイギリスから独立したマラヤ連邦(のちのマレーシア)政府は、国語の表記文字としてラテン文字を採用した。多民族社会において、各民族が共有できるのはラテン文字だったためである。この結果、民間の出版活動においてもジャウィからルミへの転換が急速に進んだ。ジャウィは過去の伝統とみなされ、わずか数十年前の質量ともに豊かな記録は現在から切り離されてしまった。 現在のマレーシアにおけるジャウィのとらえられ方には世代差がみられる。植民地期から独立当初に幼少期を過ごした老人たちにとって、ジャウィは郷愁を誘う存在である。一方で、現役世代のマレー人にとってジャウィはなじみがない。アラビア文字は母音を表記しないため、ジャウィでは母音の表記は子音の文字により代用される。しかし、6種類あるマレー語の母音と一対一には対応しないため、一つの綴りに複数の読み方が生じる可能性がある(20頁左下の表)。さらに、古いジャウィでは母音が表記されない場合も多く、文法や語彙も現在とは多少異なるため、同じマレー語でもルミで育った世代には読みにくいのだ。 しかし現在、ジャウィが見直される動きが出てきている。マレー人がジャウィを自らの文化のシンボルとみなすようになったのである。その背景には、1970年代以降の世界的なイスラム復興の動きがある。コーランの文字であるアラビア文字でマレー人の言語を表記するジャウィは、彼らのアイデンティティを強める要素の一つとなった。 ジャウィの復活に一役買っているのがマレー人主導のマレーシア政府である。1980年代には、政府系機関の主導でジャウィの正書法の見直しが行われた。そこではルミの綴りとの整合性が重視され、結果として母音の表記も増えて現代人にも読みやすい綴りとなった。2000年代にはいり、小学校でもジャウィが教えられるようになった。マレーシアでは、ムスリム向けに「イスラム教育」という科目がある(ムスリム以外は「道徳」となる)。そのカリキュラムの一部にジャウィが組み込まれ、教科書や副読本も作られた。ジャウィに慣れ親しんだ若者層が登場することで、ジャウィをめぐる世代差にはまた新しい要素が加わるだろう。「遺産から展望へ」 民間にもジャウィの復興の動きが出てきている。筆者は、現在マレーシアでジャウィの資料のデジタル化や復刻事業を行っている出版社に協力している。きっかけは、1950〜60年代に発行されていた『カラム』というジャウィの雑誌に関する京都大学地域研究統合情報センターの共同研究であった。同誌は、東南アジアから中東へと広がるムスリムの国境を越えたネットワークがうかがえる貴重な資料であるが、これまで十分に利用されてこなかった。共同研究は、デジタル化を通じた現地社会との資料の共有や研究の社会還元を目指すもので、マレーシアにおける提携者を求める過程で出版社クラシカ・メディアのムハンマド・シュクリ氏と知己を得た(『カラム』とその共同研究については、http://majalahqalam.kyoto.jp/を参照)。 シュクリ氏は、「遺産(マレー語でWarisan)から展望(Wawasan)へ」をキーワードとして、ジャウィにマレー人の文化としての現在的な意義を見出している。彼は、京都大学の共同研究との提携を出発点として、デジタル化された『カラム』の復刻版やそれに関する研究の出版、ジャウィの研究組織の立ち上げなど、幅広い活動を行っており、マレーシアにおいて独自の活動の基盤を作りつつある。 筆者はクラシカ・メディアが主催するジャウィのセミナーに参加した経験がある。参加者は、大学生から一般企業に勤める社会人までさまざまだが、専門的な研究者としてではなく、自文化や歴史への関心から教養としてジャウィを学ぼうとする人々であった。彼らは、ジャウィに対して最初は戸惑うこともあったが、もともとマレー語は母語であるため、一通り読み方の手ほどきを受けるとすらすらと読めるようになっていた。 現在のマレーシアにおいて、ジャウィは言語・文字として必要不可欠な存在とは言い難い。しかし、ジャウィは実用性以上にメッセージ性を持っている。言語・文字は他者との関係を取り持つ役割だけでなく、民族固有の文化として他者からの差別化を図る役割を持つこともある。みんなが使うラテン文字でなく、ムスリムのみが使うアラビア文字のジャウィは、マレー人の絆を強める存在として見直された。多民族社会のマレーシアにおいて、文字には人々の価値観や関係性が埋め込まれており、その役割も常に変化しているのだ。最近出版された子供向けのジャウィの教本、絵本。クラシカ・メディア主催のジャウィのセミナー。クラシカ・メディアと京都大学の共催で行われた『カラム』に関する国際ワークショップ。ジャウィ雑誌『カラム』の創刊号(1950年)の表紙。アとなる。両国はそれぞれマレー語のラテン文字表記を公定し、それを行政や学校教育に導入した。これがマレーシア語・インドネシア語のもととなった。両者は違いもそれなりにあるがお互いに通じ合う関係で、いずれもラテン文字で表記される。 ただし、ジャウィ(アラビア文字)からルミ(ラテン文字)への転換は一直線に進んだわけではない。人口規模、民族的多様性が大きく、ジャウィの共有度が相対的に低かったオランダ統治下では比較的早くルミが普及したが、ムスリム人口におけるマレー人の比率が高かったイギリス統治下ではジャウィの伝統が残った。マレー半島では、植民地期の20世紀前半が実は最もジャウィが流通していた時代である。行政の場でのルミの普及が進む一方で、民間ではジャウィによる出版活動が発展し、多くの新聞・雑誌が発行されたからだ。前近代のジャウィの流通範囲が王権・宗教関係者に限られてい

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