現在は販売が禁止されているアラック。アルコール度数は約35%。100mlのパックで値段は13ルピー(当時のレートで約30円)ほど。当時労働者の日給は200ルピー以下であったので、収入のかなりの額がアラックに消えていたことになる。つの区分を導入した。酒に酔うとは、血液に溶け込んだアルコールで脳が麻痺することによって起こる現象だから、「自分の内部に器官の混乱と惑乱の状態を生じさせて遊ぶ」(『遊びと人間』講談社文庫、44頁、1990年)というイリンクスに相当すると考えてよいだろう。さらにカイヨワは遊びには二つの軸があるという。スポーツやゲームなどのルールや技(ルドゥスの軸)と「気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散」(パイディアの軸)である。飲酒はパイディアの軸に限りなく近い。しかし、イリンクスを通じてパイディアへと人を誘う飲酒の遊びは、インドにおいては不道徳な社会悪という負の刻印を押されている。 インドにおいて飲酒が社会悪とされるのには複雑な歴史的背景がある。十九世紀前半から英米の敬虔なキリスト教徒たちによって推進された禁酒運動(テンプランス運動)は、ガンディーらによるヒンドゥー社会改革運動に大きな影響を与えた。植民地支配以前のインドで飲酒がどう社会的に捉えられていたのかを判断するのは難しいが、古代インドのヴェーダ祭礼でのホーマ酒(これが一体何なのかは未だ議論の残るところ)の重要さをみれば、必ずしも否定的に捉えられてはいなかったことがわかる。しかし近代になると酒を断つことは、自らを律し、より良い自己を得ることにつながると考えられた。さらに1930年代になると禁酒運動は反植民地運動の重要な活動の一つとして位置付けられた。金貸しや酒屋は暴利の酒税をかけるイギリス植民地主義の手先とみなされ、独立運動の活動家たちは地元の酒屋を襲ったのである。 一方で、インドでアディヴァーシと呼ばれる山岳地帯に住む部族民は、マフアという植物の花から醸造した酒を飲み、それは彼らの宗教文化において重要な役割を担っている。平地の民にとって酒を断つということは、こうした部族文化と距離を置くことであり、また飲酒を日常的に行う旧不可触民(現在はダリトと呼ばれることが多い)や低カーストたちとの違いを強調することでもある。二十世紀初頭に多くの低・中カーストが、他のカーストから思われている地位よりもより高い地位を主張したが、この際にも、菜食主義と禁酒がコミュニティーの中で徹底していることが高カーストであることを主張する根拠とされた。 独立後のインドにおいては、飲酒はさらにねじれた状況に置かれている。植民地政府が得ていた酒税は、独立後の多くの地方州政府に引き継がれ、現在でも税収入の25%程度を占める(アルコールの税率は種類によって大きく異なるが、300%を超えるものもある)。一方で、独飲酒=不道徳な遊び インド人はよく「あの人、飲むんだって」とヒソヒソ話をする。ここで飲むとは酒を飲むことで、この会話のトーンは非常にネガティブである。ごく一部のエリートを除いて、酒を飲むことは、ギャンブルをしたり、愛人を囲ったりすることとほぼ同義の「悪いこと」である。 遊びの研究で有名なロジェ・カイヨワは様々な性格の遊びに競争(アゴン)、偶然(アレア)、模擬(ミミクリ)、眩めまい暈(イリンクス)という4悪い遊戯?南インドの飲酒事情池亀 彩いけがめ あや / 東京大学東洋文化研究所酒を飲むことは、生きていくために必須とは思われない。飲酒がタブー視されているインドではなおさらだ。それでも多くのインド人は飲む。なぜだろう。ほとんど酒を飲めない人類学者が飲酒のフィールドワークを一週間やってみた。あそぶ 2ラウンジ・バーが入っていたショッピングモール。ベンガルール市内に林立し始めた巨大ショッピングモールの中にあるラウンジ・バー。中間層の若者たちはジーンズにTシャツ。インドの民族服を着ていたのはどこへ行っても筆者のみであった。
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