5FIELDPLUS 2016 01 no.15日本霊長類学が目指したもの チンパンジーやニホンザルなど、ヒト以外の霊長類(以下サルとしよう)を対象とした研究分野を霊長類学という。霊長類学が始まった当時は(ひょっとすると現在でも)、人間を他の動物とは切り離された特別なものと考えるのは至極当たり前だった。初期の日本霊長類学は、そうした考え方に疑義を呈した。霊長類学者たちは、たとえば、社会や文化、歴史といった、人間だけのものと思われていた概念をサルにも仮定し、実際にそうしたものが存在することをサルの観察から明らかにしていった。 その際、それぞれのサルを一括して捉えず、個々に区別して、名前を付けた。サルと共感できると考え、擬人的な方法を採ることも敢えて避けなかった。 サルを人間と区別せずに扱うことには批判も多い。だが、敢えてサルを「もの(=自然科学の対象)」の側に入れず、「人間(=社会科学の対象)」の側に入れることで見えてきたことも多い。 たとえば、当初は、サルを個々に識別できるということに欧米の研究者は懐疑的であったという。人間が相手であれば普通にできることなのに、対象が人間以外であると、そんなことができるとすら考えが及ばなかったのである。人間を自然とは切り離した位置に置き、動物を「もの」の側に区分するという偏見がもたらした弊害だったのかもしれない。 現在では個体識別は世界的にスタンダードな方法となっている。つまり、欧米人であっても、普通にサルの識別ができる。実際に識別ができると、個々のサルに豊かな個性があることが明らかになる。社会は多様な個性を持った個体たちのやり取りから成り立っているから、この方法論上の変更は大きい。「人間」を越えて 人間はある意味過度に000社会的で、本来社会的な存在ではない「もの」をも社会的な存在として認めることすらある。一方で、人間をすら「もの」のように扱うこともできる。日々メディアを賑わす残虐な殺人事件の中には、人間がいかに他の人間を「もの」のように扱うことができるのかを痛感させるような例も多い。 人間と「もの」との関係を見直すという作業をおこなう場合、「もの」の側にいろいろな対象を入れてみて、それら多様な「もの」と人間との関わりを見ていくという作業も重要である。だがむしろ、「人間」というカテゴリの不変性を疑い、「人間」を越えて人間性を理解することが今後よりいっそう重要になっていくのかもしれない。それは人間を貶おとしめることではない。むしろ社会的な存在としての人間をよりよく理解していくことに繋がるはずだと私は思う。図1 イコチャの後ろで、一人遊ぶゾルファ。図6 調査地であるタンザニアのマハレ山塊国立公園。図2 ゾルファはついに我慢できなくなって、イリスを覗きにいく。イコチャはそれを見守っている。図3 ゾルファがイリスに触ろうとして初めてイコチャはそれを制する。見るのはOKだが、触るのはダメということだろうか。ここではゾラが二人の様子を見ている。図4 イコチャは制したその手でゾルファをくすぐる。ゾルファをあやすことで、ゾルファを全面否定はしない。図5 イリスと遊ぶことを止められたのでゾルファは少し不満である。その不満がイコチャの横での足踏みに表れている。
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