4FIELDPLUS 2016 01 no.15「人間」とそれ以外の「もの」という区分をするならば、動物は当然「それ以外」の側に入る。だが、このような区分は本当に妥当なのだろうか? 野生チンパンジーの研究から「人間」というカテゴリの限界を問う。ゾルファはイコチャの手と遊びながらもう一度イリスに顔を近づける。そして、ゾルファはイコチャの横で軽く足踏みをすると、イコチャの後ろへ戻り、一人遊びを再開した。* これは、タンザニアのマハレというところで、実際に生じたやり取りである。ただ、登場人物は人間ではない。私が研究を続けてきた野生のチンパンジーである(図1~5)。 イコチャやゾラといった名前が付いていることからも分かるように、研究者はそれぞれの個体を識別していて、子供たちについてはいつ生まれたのかも分かっている。動物は「もの」か 人間とそれ以外の「もの」という区別をするならば、チンパンジーは「もの」の側に入れられてしまう。当然チンパンジーは人間ではないからだ。西洋が起源であるほとんど全ての学問では、この区分は妥当である。人間は特別であるから、哲学や人類学、社会学といった文系の学問で論じられる対象である。人間以外の動物は「自然」の側に位置するので、理系の学問の対象である。そうした伝統的な枠組みでは、動物であるチンパンジーが「もの」の側に入ることに議論の余地はない。 しかし、である。 単純に「もの」の側にチンパンジー(やその他の動物)を入れてしまうことに私は違和感を覚えてしまう。上のようなやり取りは、たんなる「もの」と「もの」との相互作用なのだろうか。イコチャやゾルファが実際には人間だった場合、何か本質的に変わるものがあるのだろうか。 結論から言うと、私にはこのやり取りは極めて「社会的な」ものに思われる。そして、登場人物が人間であってもチンパンジーであっても、社会的な存在であるとい「私は何者か?」という問い 「私は何者か?」──誰もが一度は考えたことのある問いだろう。そして有史以来、諸学が追い求めてきた根源的な問いの一つでもある。 「少なくとも私は人間だ」──だが、そもそも人間とは何だろう? 人間は「神」ではない。「獣けもの」ではない。「植物」でもない。こうした人間ではない何か(=非人間)と差別化することで、人間は人間自身を、ひいては「私」を、理解しようとし続けてきたのかもしれない。人間と「もの」との関係性を見るという本特集の趣旨もおそらくそうした問いと繋がっているはずだ。 まずは、ある日常の一コマからスタートしよう。* イコチャとゾラという二人の母親が座っている。ゾラの2歳になる娘ゾルファはイコチャの後ろで砂遊びをしている。イコチャの胸には生後1ヶ月のイリスが抱かれている。 ゾルファはイコチャの前に回り込み、イコチャとゾラの間に座ると、イコチャの胸にいるイリスをじっと覗き込む。 ゾルファがそおっとイリスに手を伸ばすと、イコチャは優しくその手を取って遮る。そのままイコチャはその手でゾルファを軽くくすぐる。ゾラは静かにそれを見る。う意味で本質的には大きな違いはない。そう私には思えるのだ。人間は手つかず? 私の違和感は、一つには「人間」の側は手つかずのまま置いておいて、「もの」の側だけにさまざまな対象を入れて考えようとするあたりにあるのかもしれない。 言うまでもないが、人間はヒト(=Homo sapiens)という動物の一種である。 ヒトの受精卵を想像してみよう。受精卵は、生物学的には完全なヒトである。それにはヒトの全ゲノムが含まれているし、正常に発生すれば完全なヒトの成体になる。受精卵であろうが、成体であろうが、生物学的な種としては等価であり、たんに発生の段階が異なるだけだ。 ただ、受精卵が人間として扱われているかというと必ずしもそうではない。それはたとえば、生殖医療において、受精卵を凍結保存してみたり、場合によっては廃棄したりすることから分かる。このような場合、受精卵は「もの」の側にあるのかもしれない。だから、必ずしも生物学的にヒトであることが人間の条件というわけではない。 もちろん、通常私たちが「人間」という場合には、生物学的なヒト以上のことを想定していることが多い。たとえば、言語や文化を持ち、理性的な存在──そういった存在こそが人間だと。この意味では、受精卵はどう考えても人間ではない。 では、生まれたばかりの赤ちゃんはどうか。赤ちゃんは言葉もしゃべらないし、まだその文化にも染まっていない、何か理性的な振る舞いができるわけでもない。だが、私たちは赤ちゃんを「もの」のようには扱わない(少なくとも廃棄しようなどとはしない)。 なぜだろう? それは、赤ちゃんがすでに「社会的な」存在だからだ。赤ちゃんであっても微笑むし、話しかければ何らかの反応を示す。しがみつく力を持っているし、おっぱいをあてがえば吸い付いてくる。つまり、赤ちゃんはいかに無力に見えようとも、すでに人間社会の網の目の中に位置付けられ、少なくとも一定の自律性を持った存在なのである。どこまでが「人間」? どこまでが「もの」?動物からの問い中村美知夫なかむら みちお / 京都大学野生動物研究センター、AA研共同研究員タンザニア連合共和国マハレ山塊国立公園
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