2FIELDPLUS 2016 01 no.15巻頭特集ひとと「もの」の く針、人形、メガネ、暦、そしてブラジャーやコンピュータ、ロボットなどの人工物までが含まれている。 今回の特集では、人間と非人間の「もの」との関係性をアジアやアフリカの各地の実際の事例に基づきながら紹介することを通じて、一見すると常識的な「もの」観に揺さぶりをかけることを狙いとしている。アフリカやボルネオにおけるヒトと動物、バリ島における仮面、現代日本におけるコンピュータといった具体的な事例を通じて、私たちはともすると暗黙のうちに想定している人間中心主義的な「もの」観を、いま一度、疑ってかかることの必要性に気が付かされるであろう。この特集は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の共同利用・共同研究課題「『もの』の人類学的研究(2)――人間/非人間のダイナミクス」の成果の一部です。 私たちが人間と人間以外のさまざまな「もの」(生物、自然物、人工物など)の関係を考えるとき、ともすると通念的で人間中心主義的な「もの」観に捉われがちである。すなわち、人間だけが高度な知性や「心」をそなえた主体として特権化され、逆に人間ならざる各種の「もの」(煩瑣になることを避けるため、本稿ではこれを「非人間」と総称することとする)は、あたかも一種の心なき自動機械のような存在として暗黙のうちに把握されがちである。そこでは人間と非人間のあいだの区分や境界は絶対視され、その揺らぎや越境、あるいは両者の混交といった現象が意識されることは稀である。 また、こうした世界観においては人間の側の非人間の「もの」に対する優位も揺らぐことがない。こうした見方は、近代社会において常識化した、しかしある意味では、極めて人間中心主義的な「もの」への態度だと言えるだろう。 しかし、実際にはこのような「もの」観は、決して人類に普遍的な枠組みではないし、人間と非人間のさまざまな対象との関係を考える上で、必ずしも常に適切な枠組みであるとも言えないのではないだろうか。たとえば日本語で「もの」について語られるときには、目で見、手に触れることのできる日常的な「物体」はもちろんのこと、「いきもの」だとか、さらには「もののけ」や「つきもの」といった言葉に示唆されるように、不可視の霊的な存在までを包摂することがありうる。本特集における「もの」という場合も、いわゆる「死せる物体」という意味だけに限定するのではなくて、むしろ動物をはじめとする生き物、自然物、人工物など、人間以外の多様な存在者を広く包摂する言葉として用いることとしたい。 こうした多様な「もの」と人間の関係に関して、たとえば日本では漁業者や養殖業者らが各種の生物の供養塔や碑を造って供養することが知られている。実際に日本の各地に鯨や鰻やフグの供養碑だとか、真珠養殖業者の建てた真珠貝供養塔・供養碑などが造られ、ときにはそうした生物に対する供養祭が今も実施されている。こうした供養の対象には、必ずしも生物だけではな責任編集 床呂郁哉真珠貝供養塔。三重県賢島。2007年床呂撮影。
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