FIELD PLUS No.15
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31FIELDPLUS 2016 01 no.15と化したカワウソの姿である。こうして糞便の俗称は黄金なのである。急上昇するかものはすにほとけむしが拝み輝き放つ オーストラリアに生息するカモノハシは、カモのように扁平で、ゴムのようなくちばしを持つ奇妙な生きものだ。からだはのっそりしたモグラのようでいて、驚く程の俊敏さで、魚のように自在に泳ぐ。また、爬虫類や鳥類と同じ単孔をもつ。つまり、排泄と生殖、卵を産むのも、全てこの一つの孔である。鳥のように卵生するが、孵化した子供は哺乳類と同じく、母乳で育てられる。このちぐはぐな生きものは、鳥なのか、爬虫類なのか、哺乳類なのか。およそ人の手でバラバラに構成されたかのような、奇妙な自然の生きものが、貼り合わせの結合調和を見せている。 糞便として生きものを見ることを検討していた頃、たくさんのメモ書きのなかでも、カモノハシは私にとって「異質なもの」の象徴であった。当初はまだ漠然としていて、異質性の接続という世界観さえも顕われたのはもっと後だが、カモノハシは、ふとした日常のあらゆるところから手招いて、私に言葉を落としていった。「異質なもの」としてのカモノハシを描いてみよう。ある夏、お寺で鉢栽培された蓮を見た。蓮は泥海からつぼみを擡もたげて、仏の台座として咲き、天地をつなぐ言葉の断片である。そうだ、「異質なもの」が住まうところは、単に池や川ではないだろう。故郷に遊ばせてはならない。たとえば、蓮池なんかどうだろうか。 ところで、よく見かける野生の蓮は、葉がたくさん成長し、一方、花は全体的にまばらで数が少ないことが多い。ところが、私が見たお寺の人が栽培した蓮は、一、二枚の葉に対して一花ついている。これには土に秘密があって、地上部の花や葉がの内にこそ仏、いや「人間」が宿るのだ。キンカメムシの幼虫を見よ。仏を宿して落ちているではないか。まるで「ほとけむし」の姿で、輝き照らしている。 異質性を研ぎすませると、まばらな言葉が落ちてくる。その貼り合わせに、匂い立つように降り立ち、絵に顕われるのは、人工がぎりぎり産み出し得る、異郷としての新しい「自然=《かものはす》」である。 「人間」であることとは「異質なもの」への連綿と続く継起を生き、たえず廃棄物を落として流通させていくことである。「異質なもの」の言葉が、わたしの現実を作っているのだ。このようにして、卑近なところからでさえ、外部の大きさ、計り知れなさへ接することができる。それが私のフィールドワークである。つぎは異郷の島として浮かぶクジラでも描こうか。葉の細部を写生していたところ不忍池の側に住んでいる方に「花が二つ重なることは珍しいから撮影するべき」と強く勧められる(上野恩賜公園にて、2013年撮影)。枯れて終わったときに、地下茎を土ごと上下ひっくり返すのだそうだ。土ごと鉢を裏返し、上になった古い土を取り除き、新しい土をかけて、そのままの向きで鉢に戻す。すると花がよくつくらしい。このような、人工的な天地の接続があるのだ。仏や外部を安易に表現してはならない。それではただの異質性の記号であり故郷、「蓮池に泳ぐカモノハシ」にすぎない。徹底して描かれたもの中村恭子筆《かものはす―急上昇》2014-2015年絹本彩色、170×68 cm

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