30FIELDPLUS 2016 01 no.15トンネルをくぐって遊ぶカワウソ(上野動物園にて、2013年撮影)。浮かび上がった断片的な言葉でいっそう際立たせる。それぞれの異質さを許容することで、全てのものにそれぞれの眼差しを与えることができ、ようやく外部は力強く顕現するのだ。すなわち人が「人間」になったと言える。アイヌが大切にしたのは、そのようにして異郷を目指して外部を際立たせて生きる「人間」としての視座だったのではないか。この視座こそが、たった一つの冴えたやり方だ。こうして恵みの地平は訪れる。 一方、私は、リラックマや熊送り、北極熊の透明の毛、「ラッキーコインだけどただのコインだ」と戯おどける映画『ノーカントリー』の殺し屋アントン・シガーの表情、喉に詰まらせた真珠——降りてきたひとつひとつの断片を響かせて、これら多声の場から横溢する声を貼り合わせて間接的に描き留めるばかりだ。それでも、そこからた・・ま=「人間」として外部が溢れ出た。そのような感興を体験したすぐあとで、ロシアから密輸された大量の熊の手が、車のタイヤから流れ出たとのニュースが世間を騒がせていた。アトリエでは虫やハクビシンなどの生きものが湧き始めていた。もう断片化した作品が、異質的な接続のただ中に廃棄されて、手招きし始めた。「異質なもの」の普遍性 湧き出た生きものによる大量の糞便がおしよせてきた。制作中はいつも妙な切迫感におそわれる。なんだか全てが糞便に見えてくる。つかみ所の無いままの恐怖より、描いたり文字にしたりして、表現できる恐怖の方がまだましなのである。しかし表現できることは故郷の内だ。外部は外部のままに。いかに手招かれるか。いかに作品が、知らぬ間に現前することを仕組むか。まずはそのように糞便の世界を構想してみよう。 糞便は、体内から不要なものとして排出され、わたしとは決して再度合一には至らない異質なものである。仮にそれが微生物によって分解されようとも、さらには、それがまた別の生きものの吹き出すための肥やしになろうとも、わたしの故郷では与り知らぬことである。糞便は、誰にとっても「異質なもの=廃棄物」であるからだ。他のものに対して、いかに糞便が価値ある黄金のように流通しようとも、それは単なる循環的な交換とは違い、ただ、窺い知れぬことの、断絶の連続なのである。この断絶の連鎖が、異郷への手招きである。とすると、糞便とは、さまざまな自然が全くさまざまなままに共立した異質性を物象化した存在であり、徹底して「異質なもの」であるという意味で、普遍的な存在といえるだろう。 異質であることは、このようにたえず外部へと対話を求め続ける。「異質なもの」はその普遍性において、アイヌの「人間」のように、全ての「自然」と対話ができるというわけだ。故郷の延長とその集積から跳躍して思いもよらぬ地平に立つには、等質的な態度から脱して、糞便のように異質的な流通に飛び込むことが不可欠である。そこでの異質な断片の貼り合わせは、本来の姿からずれたところに像を結ぶかのような、収差をうみだす。断片の隔たりが、「現実」から逸脱した向こう側を露あらわにする、創造の無垢な力を守ることができる。その意味において、創造とは、作品とは、異質的な流通のなかに流された「廃棄物」としてでしか顕われないのである。 排泄物のイメージが、このように制作に転回しながら、私はカワウソの不思議な行動に魅了された。カワウソは、みんなで共通の糞場を持っているのだが、みんなで排泄した糞を混ぜ捏ねて、テンパリングチョコレートのように艶やかにする、糞泥遊びのようなことをするのだ。まるで「異質なもの」の造作のようではないか。そのピカピカさが手招く異質な言葉となって、降りて来たのは、異質性に興じ、異郷に身を投じる、泥だま中村恭子筆《かわうそだま》2013-2014年絹本彩色、177×352 cm
元のページ ../index.html#32