29FIELDPLUS 2016 01 no.15のだ。すぐさまリラックマの跳躍の構造を呼び覚ます。ちょうど、稚内の街ではサハリンからの船がきて、北極熊の帽子が販売されるのだと聞いた。ぜひ熊をかぶってアイヌの精神を体験したいと思い立った。 稚内で北極熊の帽子を入手することは叶わぬまま、南下して、白老町に入った。アイヌの大集落があったことで有名な、太平洋に面した町だ。そこで、アイヌの人々は神であるカムイに「人間」を見ている(あるいは「人間」にカムイを見ている?)という話を聞いた。これはいったいなんだろうか。 アイヌの人々は、アイヌ語で「人間」の意味を持つ「アイヌ」と自らを呼んでいる。しかし「人間」とは、概念としての「人間」であり、現実の人のことをただ指しているわけではないそうだ。また、熊送りの儀礼は、一見すると、熊を森から獲ってきて解体して恵みを得るための祭りのように見えるが、得られる毛皮や肉は、カムイからの置き土産であり、これらが目的ではないそうだ。アイヌにとって、熊も人も、現実世界の存在はみな仮の姿なのだという。そこで熊送りの真の目的は、熊に仮姿を脱いでもらって、その魂であるカムイとなって神の世界にお帰り頂くことだ。そうして熊も人も「人間」になるというわけである。他の生きものに「人間」を見ることとは、つまり、人以外のものも、それぞれが眼差しの宿った存在として見ることと言える。それが、カムイとは自然の全てのものに眼差しがあるという精神に基づいて「自然」を指すということの意味なのだろう。そうした自然観のもとで、祭りの宴は盛大に開かれ、歌い踊り、熊と人は切り結ばれる。最後に熊は花矢によって神の国へと導かれ、肉体はバラバラに切られて並べられ、人の装束を着せられて、「人間」になるのである。熊を「人間」としたとき、人も「人間」になる。ここに、作品制作における言葉のあり方と、近しい感覚を覚えた。 人にとって、他の生きものの見ている世界を窺い知ることは難しく、ともすればその眼差しを無視しがちだ。しかし一方で、アイヌの人々と熊とが接続して現れた「人間」は、中村恭子筆《熊ゆうそう奏図ず》2012-2013年紙本彩色、二曲一隻屏風180×200 cm熊祭りの祭壇(白老町のアイヌ民族博物館にて、2012年撮影)。単純に異質な熊と人が交換可能になった者でもない。もしも人が等質化された一つの視座を熊に当てはめるならば、熊は故郷として身の内になり、人はもう、送ることはできないだろう。実際に、文化記録のために近代になって再演された祭りの中で、一定期間飼育して共に生活した小熊を殺すことに心苦しさを感じるという声が聞かれた。等質的なものの見方は、逆に熊の視点を奪ってしまうことに他ならない。おそらくもっと以前の、本来のアイヌと熊との接続とは、むしろ窺い知れぬことの連続だっただろう。捉えきれない圧倒的な外部である「自然=熊」の異質さを、対話──非言語的な戸惑いや勘違いでさえも含まれる──の場に
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