FIELD PLUS No.15
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28FIELDPLUS 2016 01 no.15フィールドマップ(異郷)わたしわたし作品は廃棄物 私は普段、日本画を描く作家として制作活動を行っている。藝術家というと、作品をつくることが仕事であり、目的である。ほとんどの人が、そう思うものだ。また、多くの「藝術家」ですらも、そのように考えるだろう。けれども、作品はつくるものではない。作品は、「うまれるもの=廃棄されるもの」であると私は考えていて、そのような制作を体験してきた。制作活動の中で、いかに作品が副産物として廃棄されるよう仕組むことができるか。それが創造だとつくづく感じる。これまでの作品制作をふりかえりつつ、「創造」に関わる一つの方法を示したい。フィールドは故郷か、異郷か 北欧に住んでいた子供の頃、いろいろな国を旅したことがある。太陽休暇といって、陽の昇らない冬のあいだに、暖かい国へ行く決まりがあるので、渡航先では海のレジャーとなることが多かった。しかし私は泳げないし、山育ちだ。いやいやボートに乗せられ、水平線しか見えないような沖の上に放り投げられると、得体の知れなさが恐怖となっておそってくる。海の下は全く見えない。ときおり、魚かなにかの影が浮かんでは消える。ほんの一瞬、トビウオが水面を突き破って姿を見せた。そういうささいなことを貼り合わせるようにして、捉えられない世界を窺い知ろうとしたものだ。 普段わたしたちが接する世界や他者は、「異郷=外部」ではない。ここで用いられる言葉は、わたしと世界を繋ぐ「透明な言葉」である。透明な言葉で身の内に巻かれた外部は、違和感が徐々に無くなる仮歯のような、拡張された身体でしかない。そのような言葉は、わたしと世界の間で共有される等質性が前提となる。わたしと世界の関係を、全体として変えることなく、変調するに過ぎない。どこまでもわたしの延長でしかない。世界がわたしのイメージの産物であり想定可能なものであれば、そこはもう、故郷である。一方、異郷とは、永遠に異質であることの連続である。しかし、外部は、故郷としてのフィールドに接するのでは降臨しない。はたしてわたしが接する世界──フィールド──は、故郷か、異郷か。ここにおいて、創造行為──思いもよらぬなにかがうまれること──における作品と言葉の関係は、全く異なるものとなる。言葉を貼り合わせて メルヴィルの小説『白鯨』では、エイハブ船長が巨大白クジラのモービィ・ディックに片足をかじられて以来、因縁の再会に執念を燃やしていた。捕鯨船に乗り込んで、クジラの大群に遭遇すると、多種多様の船乗りたちが一同に大漁の幸運に歓喜する。しかしエイハブはそのような普通のクジラ、故郷としてのフィールドに与くみすることを許さない。航海士のスターバックの制止もむなしく、ひたすら白い巨大海獣を追うことを誓い、船乗りたちは、感化され引きずられていく。終盤、ついに姿を顕わしたモービィ・ディックとの息詰まる攻防の末、「計り知れない大きさ=外部さ」を体現した宿敵の背に銛もりを突き立てたエイハブは、そのまま一緒に海に消えていく。ふたたび浮かび上がったとき、モービィ・ディックの背中には、銛と縄で張り付いたまま、エイハブが、手招きをするように腕を動かして、船乗りたちを導いて連れ去っていく。エイハブこそが、異郷へと接続する異質な言葉であったのだ。 私は、言葉を用いる作家である。ただし、私の制作では、言葉は作品を説明するものでもなく、作品の代替物でもない。故郷(普通のクジラ)の内に作品をぬくぬくと巻き付ける言葉は無用である。私にとっての言葉は、常に異郷としてのフィールドからの、エイハブの手招きである。なにかを表出しようとするとき、それはかならず「外部=モービィ・ディック」から降ってくる。といっても、異郷であるときのフィールド(モービィ・ディック)を言葉によってイメージとして表現するわけではない。立ち位置が異なるこちらは依然として、モービィ・ディックを普通のクジラと同じようにわたしのイメージとして扱い、想定するすべしか持ち合わせていないからだ。しかしモービィ・ディックは、普通のクジラのように直接表現されるわけではない。わたしと普通のクジラとして描かれるイメージとの間に、その断絶に、断片的に落ちてくるに過ぎない。外部は、この断片から間接的に、描かれるものなのだ。つまり、普通のクジラとして表すことが難しく、それでもモービィ・ディックを捉えようとする中で、ふと、物語に登場した、セントエルモの火、クィークェグの棺、エイハブの手招き、たくさんの断片の言葉が、バラバラに蒔かれる。重要なことは、異質で隔たりのあるままに言葉を並べることだ。すなわちそれが創造なのだ。すると、言葉の貼り合わせの隙間から、香りのように浮かぶ島として、モービィ・ディックが鮮やかに降り立つのである。作品とは、そのように「副産物=やはり異質なもの」として与あずかり知らぬうちに現前するもの、そうなることを仕組まれるものなのだ。 それでは具体的にいくつかの制作をみてみよう。目的は「人間」──熊ゆうそう奏図ず 私はリラックマのぬいぐるみが好きだ。UFOキャッチャーで白い方の特大のものを見たのが最初だが、熊なのにトナカイの着ぐるみを着てこんがらがっていた。一方、茶色い方の熊も、背中にファスナーがついていて、実は熊ではなく着ぐるみとしてのキャラクターであることを知った。いったい中身は何者なのか。ファスナーを下ろすと、中の人や肉といった想定し得る「現実」ではなくて、目に飛び込んでくるのは、抽象的なみ・・・・ずたま(柄)。そんな思いもよらぬ「跳躍=外部」を体験することとなる。こんな制作でありたいものだ。あるとき、人の服を纏まとった熊を知った。アイヌの熊送りの儀礼で捌さばかれた熊の頭部の遺骸に、アイヌの衣装が掛けられ、祀られていた最近は特に、世界のなかで何かがうまれることに、それだけに関心があるということがわかってきた。Field+ART異質な言葉が手招く中村恭子 なかむら きょうこ / AA研特任研究員、日本画家フィールドマップ(故郷)モービィ・ディック普通のクジラ言葉言葉の貼り合わせで異質さを際立たせる透明な言葉で拡張された身体

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