FIELD PLUS No.15
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27FIELDPLUS 2016 01 no.15  シュリーマン(1822−90年)が少年時代に読んだホメロスの『イリアス』を史実と固く信じてトロイア発見を夢見続け、ついに今のトルコの地で考古学史上に残る発掘をなしとげたことは、誰もが知っているだろう。今日「トロイア遺跡」は世界で最も有名な遺跡として、ユネスコの世界遺産に登録されている。しかし本書をひも解けば、彼が発掘した遺跡がトロイアであったという「定説」が、いかにあやふやなものであるのかと、衝撃を受けるに違いない。 本書の著者は、アンカラ大学に留学し、40年以上にわたってトルコ各地で発掘に携わってきたわが国のアナトリア考古学の第一人者である。著者はトルコのシンポジウムで、かつて共に学んだ旧友オメールと久しぶりに再会する。彼はシュリーマンが発掘したヒサルルック(「城塞のある場所」を意味する現地の地名)遺跡の出土遺物を管理するチャナックカレ博物館の学芸員になっていた。遺跡を案内されながら、オメールのもらした言葉をきっかけに、著者の疑問は膨らんでいく。ヒサルルック遺跡がトロイアであるとは考古学的に証明されていないのではないかと。 本書の圧巻は、ヒサルルック遺跡=トロイアという定説には、先人たちの努力にかかわらず、決定的な考古学的根拠がないことを、著者のフィールドでの発掘経験に基づいて解き明かしていく過程だろう。ヒサルルック遺跡がトロイア戦争の舞台であったならば戦争の結果生じたはずの凄惨な火災の痕跡も、激しい戦闘で残されたはずの大量の武器も人骨も、未だまったくと言ってよいほど確認されていないのだ。定説をフィールドから問い直す研究者の本棚髙松洋一たかまつ よういち / AA研              シュリーマンが発掘した遺跡がトロイアだという定説には、果たして考古学的に決定的な根拠があるのだろうか?フィールドで長年の経験を積んだ著者による、考古学とは、研究とはいかにあるべきかを教えてくれる好著。 近年の研究は、シュリーマンの自伝『古代への情熱』が事実を捏造、改かいざん竄していたことを明らかにしている。著者もまた、彼がひたすら遺物を追い求め、層序、すなわち文化がどのように堆積しているのかという考古学の基本を理解せず、ヒサルルックを掘り進めていた点に関しては、「素人の域を出ていたといえない」と容赦ない。しかし『古代への情熱』の愛読者でもあった著者は、シュリーマンの、ヒサルルックこそトロイアであるという仮説に基づいて、確固として発掘に邁進した姿勢には、一貫して敬意を払うことを忘れない。研究で重要なのは、何よりも自分なりの仮説をもって対象に臨むことである。とは言え仮説に囚われるあまり、自分に都合の良いデータのみに目を向けてしまうことの危険性も、著者は自戒をこめつつ語っている。 もし著者にヒサルルック遺跡を調査する機会が与えられれば、シュリーマンらが掘りつくし、かき出した後の膨大な排土を丁寧にフルイにかけてみたいと言う。うち捨てられてきた排土の中にこそ、ヒサルルックの正体を明らかにする資料が発見されるかもしれないのだ。 それにしても考古学の発掘は気の遠くなるような作業である。同じトルコで調査しながらも紙と鉛筆さえあれば研究できる私のような歴史研究者には、まず現場の用地買収から始まるというだけでも驚きだ。一シーズン2ヶ月で発掘される遺物の数は何十万点にものぼると言う。それをひたすら整理、保管するのであるから、とても研究者が一人でやりおおせる仕事ではない。 ときおり挟まれる風景描写や現地の人々との交流のエピソードも、写真家の兄・大村次郷氏の手になる美しい写真とあいまって、本書を魅力的なものにしている。トルコを知っていると思わず「あるある」と膝を打ちたくなるくだりに何度も出くわす。村人たちは墳墓には必ず黄金が眠っている、だから考古学者は遺跡を調べているのだと信じている。私も留学中、地方を旅行するたびに宝探しと疑われ、初対面のトルコ人からいきなり「日本から黄金にしか反応しない金属探知器をぜひ輸入したい」と相談されて閉口したものである。 終章の最後では、旧友オメールの突然の死と彼の墓参の思い出が、淡々とした筆致で語られて、本書が追悼の書でもあったことに気づかされる。 本書はアナトリア考古学の一般向け図書であるが、先入観をもたずに定説に向き合う著者の真摯な姿勢は、分野の違いを越えて読者の心を打つであろう。考古学やアナトリアの歴史に興味のある人はもちろん、研究はいかにあるべきかを考えたい人にも是非一読をお勧めしたい。シュリーマンが発掘した遺跡はトロイアだったのか考古学とは、研究とはいかにあるべきか大村幸弘 著『トロイアの真実──アナトリアの発掘現場からシュリーマンの実像を踏査する』(山川出版社、2014年)

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