16FIELDPLUS 2016 01 no.15インドネシアの少数言語の現状と近年の変化 多民族国家であるインドネシアには300以上の言語がありますが、そのほとんどが話者数千~数十万人単位の少数言語です。現時点で十分な記録・記述が行われている言語はごく一部である上に、近年の急速な社会変化に伴い、少数言語から国語や地域共通語への言語シフトが信じられない速さで進行しており、調査・記録が追いつかない状況です。言語はそのコミュニティがそれまで経てきた生活や、保ってきた文化・価値観の索引のようなもの。どの言語にも独自の知恵がぎゅっと詰まっています。それが記録されないまま失われるのは様々な面で——そのコミュニティにとってはもちろん、広く人類全体にとっても——本当に惜しいことです。救いなのは、このような状況への危機感が話者自身の中に生まれ、少数言語の話者が自分たちの言語・文化の価値を再評価する動きが生まれつつあること。話者コミュニティによる地域言語・文化振興運動が各地で見られるようになり、地域の大学でも少数言語の話者が自分の言語を研究し、学位論文を執筆するケースが増えてきました。私たちの活動の目的は言語学者としてこのような取り組みを支援し、一緒に少しずつ育てていくことです。スンバワのことを世界に知ってもらいたい! 私は学生時代から20年以上、西ヌサ・トゥンガラ州スンバワ県・西スンバワ県で話されている少数言語、スンバワ語の研究をしています。この間ただ一人のコンサルタントと一緒に調査・研究を進めていたのですが、2013年の夏に、そのコンサルタントの紹介で、「スンバワ文学協会」の設立を目指すスンバワ語話者のグループと出会い、一緒に活動するようになりました。グループのリーダーは高校で日本語を教えている先生で、数年前に日本語教師研修のため日本を訪れた際に「スンバワの人は世界を知らず、世界の人はスンバワを知らない。この状況を変えたい!」と感じ、地域の仲間を募りグループを結成したのだそうです。スンバワの存在を世界の人に知らせ、スンバワの人が外国語や世界の文化に触れられる場を作りたい、そのために筆者の力を借りたい、とまっすぐに語る姿に、私はなぜだか思わず笑ってしまったのですが、彼はそんなことは一切気にせず自分の理想を語り続けたのでした。スンバワ語話者との共同作業 彼らと最初に行った共同作業はスンバワ語のビデオの作成です。データの収集、転写・翻訳・注釈などのアノテーション付与という言語・文化発信に必要な作業を、まずは私と一緒に行うことにより、 私が現地にいないときも、グループが自分たちだけで主体的に活動できるようになることを目標としました。 グループのメンバーは比較的年齢層が低く元々ITのスキルがあったため、最初こそ私が多少の手ほどきをしたものの、ほどなくしてメンバーそれぞれが専用のソフトウェアを用いての音声データの転写・翻訳作業をコンピューター上で行うことができるようになりました。 この試みは、言語データ収集作業として、とても実り多いものでした。話者と一緒に作業を進めると、話者の興味に沿った内容の自然な発話データを大量に記録・処理することができます。それまで主にお年寄りが語る物語やモノローグを録音し、コンサルタントと二人きりで手書きで転写・翻訳を行っていた私にとって、これは画期的なことでした。実質3日間の作業で15分程度の字幕付きビデオを2本作成し、YouTubeで公開することができました。インドネシア各地でのワークショップ スンバワでの経験から、外部の言語学者が言語記録の手法を伝えることによって、現地話者にとっても言語学者にとってもより望ましい記録を行うことができるという確信が私の中に生まれました。スンバワのケースのように、現地で一緒に活動し育てる 2話者コミュニティによる少数言語の記録活動を育てる塩原朝子しおはら あさこ / AA研2013年からインドネシア各地で少数言語コミュニティを支援し、彼ら自身による言語・文化記録活動の芽を育てるための活動を行っています。活動の柱は、私自身の調査地であるスンバワ語の話者グループとの言語・文化記録活動と、大学におけるワークショップ開催の二本です。スンバワの仲間たちと筆者(左から2人目)。仲間の一人バーリ氏(右から3人目)は沖縄で2年間マグロ船に乗っていました。そこで貯めた資金を元手にしてこの土地を購入し、将来この地にスンバワ文学協会が運営する日本語学校を建設する計画を立てています。スンバワの主な産業は畑作、牧畜、そして漁業です。インドネシアサマリンダマナドクーパンコタキナバルデンパサルジャンビスンバワスンバワ島2013年8月から2015年8月までの2年間にデンパサル、コタキナバル、サマリンダ、ジャンビ、マナド、クーパンの6か所でワークショップを開催しました。
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