FIELD PLUS No.15
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11FIELDPLUS 2016 01 no.15濃囲いと比べて堅い陣形を維持できる穴熊側が有利とされており、現在のプロ棋戦には殆ど現れない。その四間飛車側をもって、相手が穴熊にしようとしても構わずに淡々と美濃囲いに組んで勝利した「やねうら王」の姿は多くの棋士や将棋ファンに衝撃を与えた。 糸谷哲郎竜王は、筆者との対談において、ソフトが対穴熊に強いのは「恐怖がない」からではないかと述べている*2。王を盤上隅に配置し金銀が固める穴熊囲いは、完成までに手数はかかるが崩れにくく王手も掛かりにくい。守備をあまり考えずに相手陣への攻撃を考えればよいため、プロ同士の対局では穴熊にすることで恐怖が減り、結果として相手と比べて悪手を指しにくくなる。だが、こうしたアドバンテージは恐怖を感じないソフト相手には存在せず、穴熊を構築するために費やした手損だけが棋士側に残ってしまうのである。 では、棋士は恐怖を感じなくなれば強くなれるのか、というと話はそう単純ではない。盤面に潜む不利の芽を敏感に感じとり、敗北の恐れを抑制しながら先の展開を切り開いていく能力がプロ棋士の強さの一因でもあるからだ。恐怖を感じ、飼い慣らしていく心の働きが棋士の知的なふるまいを支えているのであれば、ソフトが示しているのは人間とは異なる知性の有様だとも言えるだろう。だが、そうしたソフトの有様を人間が吸収できないとは限らない。阿部が言うように、ソフトのようにあきらめない指しまわしが「人間の棋士にとって必要なこと」だとされるかもしれない。実際、若手棋士の中には棋士ではなくソフト対ソフトの棋譜を検討し、その指しまわしを吸収しようと試みる動きもある。だが、多くの棋士がソフトの模倣を試みたとしても、結果として生じる「あきらめない」指しまわしは、ソフトのそれとも既存の棋士のそれとも異なるものとなり、ソフトの粘り強さも異なる仕方で捉えられていくだろう。「ソフトは怖がらない」というアナロジーは棋士とソフトの相互作用をつうじて揺れ動き、そのなかで両者の姿もまた互いに変容していくのである。アナロジーを生きる 私たちは、大小無数の機械に囲まれながら日々を送っている。人類学者が調査してきた多くの社会において身近な動植物との関係が日常生活を構成し環境や自らを認識するうえで大きな役割を果たしてきたように(cf. レヴィ=ストロース 1976)、機械と人間のアナロジーに基づく相互作用は、私たちが生きる環境において重要な役割を果たしている。「機械の知性が人間を超えていく」という表現によって予測されているのは、実際には、両者のアナロジーが成立する領域の拡張である。既に私たちは「ワトソンがクイズに答える」とか「やねうら王が美濃囲いに組む」と言うことができる。だが、「ワトソンはクイズ番組に出ることを決断した」とか「やねうら王はあきらめることを嫌う」と言えるようになるかは未だわからない。そして、機械と人間のアナロジーがどこまで/どのように拡張されていくかは、科学的で技術的な問題であると同時に社会的で文化的な問題である。「人間の知性を超えた機械」なるものがいかなる形で現れるのか。それは私たちがそのような機械をいかに構成し、いかに意味づけ、「彼ら」といかなる関係を結んでいくかにかかっているのである。 *1:山岸浩史「『人間対コンピュータ将棋』頂上決戦の真実【後編】一手も悪手を指さなかった三浦八段は、なぜ敗れたのか」『現代ビジネス』2013年5月15日、4頁(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35787?page=4)。 *2:糸谷哲郎×久保明教「コンピュータと戦う、その先に見えるもの」『E!』6号、12~14頁(http://www.eureka-project.jp/#!projects/c10d6)。 *3:図3〜7の画像は『ニコニコ生放送』より。 〈参照文献〉 仲摩照久(編)1931 『科學畫報叢書1 科学文明の驚異』新光社 レヴィ=ストロース、クロード 1976 『野生の思考』大橋保夫訳 みすず書房図4 第三回電王戦第二局、佐藤紳哉VS「やねうら王」戦。図5 「やねうら王」開発者・磯崎元洋氏。図7 第三回電王戦第二局、「やねうら王」(盤面下部)VS佐藤紳哉(盤面上部)、37手目。図3 阿部光瑠六段。図6 終盤敗勢に至り顔をしかめる佐藤紳哉六段。

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