10FIELDPLUS 2016 01 no.15人間の知性を超える知能機械が現れる近未来への期待と恐れが叫ばれる現在において、人間と機械の関係はいかに捉えうるのか。棋士とソフトが戦った将棋電王戦から考察する。て変化する。足し算や引き算をする能力が知的なものであるなら、電卓は既に人間を超えている。空想を羽ばたかせることが知性であるなら、機械が人間を超える日は当分やって来ないだろう。 単に基準を変えれば判断も変わるという話ではない。人間と機械を比較する尺度は、両者の相互作用を通じて変容していく。例えば、20世紀初頭の米国では、新たに登場した自動販売機、航空機の自動操縦装置、遠隔操縦装置テレヴォックス(図1、2)などが「ロボット」や「機械人間(Mechanical Man)」と呼ばれた。だが、自動販売機や自動改札といった自動装置と日常的に接するようになった私たちにとって、それらはいかほども人間と似ていない。 機械を人間になぞらえるアナロジーは常に揺れ動いてきた。本稿では、その最新の事例の一つであり、機械が知的営為において人間を超えたという衝撃を伴って報じられた将棋電王戦について考察していきたい。ソフトは恐怖を感じない? 2011年の第一回から2015年の最終シはじめに 2015年の現在、もう何度目かもわからない人工知能(AI)ブームが再び起こっている。ネット上に溢れる膨大な動画から「猫」を認識することを学習したGoogleのスーパーコンピュータ、自然言語を理解し膨大なデータを検索する能力によってクイズ番組の歴代チャンピオンを倒したIBMの質疑応答システム「ワトソン」。目新しい技術的成果に加えて、人間の知性を超える機械によって従来とは連続性を持たない爆発的な知的進化が数十年後に訪れるという未来予測(「技術的特異点」)が、メディアや学術政策の場に溢れだしている。 だが、「機械が人間の知性を超える」という一見して明快な予測は、「知性」をいかなるものとして捉えるのかによって、いくらでも曖昧なものとなる。知性という観点から人間と機械を類比的にとらえる限りにおいて、一方が他方を超えると言うことができる。だが、「超える」ことが何を意味するかは、両者のアナロジー(類似した二つの対象において一方の性質を他方に適用すること)がいかに構成されるかによっリーズまで、四度行われた将棋電王戦は、トップ棋士に匹敵するソフトの実力(通算10勝5敗1分)を知らしめただけでなく、棋士とソフトが将棋というゲームを異なる仕方で捉えていることを明らかにするものでもあった。両者の違いについて、第二回第一局に勝利した阿部光瑠六段(図3)は、次のように述べる。▪ 人間は、自分が不利になりそうな変化は怖くて、読みたくないから、もっと安全な道を行こうとしますよね。でも、コンピュータは怖がらずにちゃんと読んで、踏み込んでくる。強いはずですよ。怖がらない、疲れない、勝ちたいと思わない、ボコボコにされても最後まであきらめない。これはみんな、本当は人間の棋士にとって必要なことなのだとわかりました*1。▪ 将棋ソフトには感情や疲労に相当する機能が存在しないため、「怖がらない」、「疲れない」といった特徴は、ソフトの性質を棋士に適用するアナロジーを通じて見いだされるものに他ならない。だが、この特徴はソフトの強さを生む大きな要因となる。例えば、第三回電王戦では居飛車穴熊に組んだ佐藤紳哉六段が四間飛車(+美濃囲い)に組んだソフト「やねうら王」に敗れている(図4~6)。居飛車穴熊VS四間飛車という戦型(図7)は、四間飛車側の美揺れ動くアナロジー将棋電王戦にみる人間と機械の現在久保明教くぼ あきのり / 一橋大学、AA研共同研究員図2 人間型のボードを取り付けられて序幕式を行うテレヴォックス(仲摩 1931: 180頁)。図1 テレヴォックスの写真とイラスト(ニューヨーク・タイムズ1927年10月23日)。
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