9FIELDPLUS 2016 01 no.15インドネシアジャワ島ケテウェルバリ島バリ島も、それを手伝うアシスタントも、小さな白い布を携帯し、この布ごしに仮面に触れる。仮面の裏側に突起があり、それを噛むことで踊り手は仮面を顔に固定する。上演時に万が一仮面を落としてしまえば、再び仮面を清浄な状態にするための大規模な浄化儀礼が必要となるし、仮面自体が破損する可能性もある。そのため、仮面の取り扱いには細心の注意が払われる。くわえて、天女の仮面を被る者は、牛肉、豚肉、乳製品、酸味の強いものなどを口にしてはならないとされる。また彼女たちは、洗濯物を家族とは分ける、汚い言葉を発しない、などの方法によって自らの清浄さを保つ。 また仮面(天女様)は、被り手を「選ぶ」という側面がある。他の舞踊は上手に踊りこなすのに、天女の舞の振付は、いつまでたっても習得できない者もいる。また、舞を習得したものの、仮面をつけることが怖くなり、辞退する少女もいるという。こういったことが起きる理由を、周囲の人々は、彼女たちが天女様に「選ばれていないから」であると捉えている節がある。 以上のことから、天女の仮面が、これを祀ったり装着したりする者たちに対し、多様な事柄を要求しているのだと理解される。人々は不適切な取り扱いや行いをして天女様の怒りをかったり仮面を穢してしまうことを恐れ、またこれを被れることを光栄に思ったりする。ちなみに、これらの事態を、もの(仮面)が人に働きかけているのではなくて、そこに宿る「神格としての天女様」が人に働きかけているのだ、と見ることもできるであろう。しかし、その神格の存在は、仮面と踊り子たちとの身体的な関わりや、人々が仮面をうやうやしく取り扱う姿によって、はじめて可視化されたり実感されたりするという点は重要である。神格(天女様)の在り方は、仮面というものとそれをめぐる人々の営みに依存しているのである。たとえば、落ちれば割れてしまうかもしれない木製の仮面のはかなさ、幼い被り手たち、口だけで支えたり、布ごしにつかむといった繊細さを必要とする取り扱いといったように、天女の舞の上演にはものと身体に関する、ある種の危うさや難しさが含まれている。そのことによって、神格としての天女様と人々の良好な関係自体も、当たり前ではなく、常に細心の注意をもって維持すべき、文字通り「有り難い」ものとなっているのではないだろうか。仮面を複製する ところで、人々がこうしたご神体の仮面をめぐる禁忌や困難から逃れ、より自由に扱える仮面を手にしようとしたこともある。仮面の複製という出来事がそれである。このことについて、最後に短く紹介する。 天女の舞は、1988年に、全島規模の大きな芸術祭に招待された。この時村人たちは、神聖なご神体の仮面を芸能祭で用いることで、仮面が「汚染」されてしまうことを心配したという。たとえば、芸術祭の行われる会場では、様々な人の出入りがある。なかにはバリ・ヒンドゥ教上は穢れと見なされる、月経中や喪中の者たちも含まれているかもしれない。村で大きな集会が開かれ、ご神体のレプリカを作り、こちらで代用することが決定された。こうして、ご神体の仮面を穢すリスクをおかさずに、儀礼以外の様々な場で天女の舞を上演することが可能となったのである。 しかし、このレプリカ作製には後日談がある。実は、その後レプリカの仮面が必要となるような世俗のイベントに天女の舞が招待されることは稀であった。そうしたところ僧侶は、長期間しまい込んでおくのは「可哀想」だと、レプリカの仮面を儀礼での上演でも用いるようになった。このレプリカの仮面は現在「子天女様」と呼ばれることもあり、ご神体に準ずる存在になりつつある。このように、仮面の役割や意味づけは、作製当初の人々の意図からずれたり、変化したりしうる動的なものでもある。複製の「子天女様」が儀礼で舞っているところ。2012年6月27日撮影。寺院での上演前に僧侶がレプリカの仮面と、その背後にあるオリジナルの仮面に祈りを捧げる。2012年6月27日撮影。
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