27FIELDPLUS 2015 07 no.14ら5年後、2013年夏のことである。武内紹人教授(神戸市外国語大学)の主宰する大型プロジェクトによって、チベット研究者と学生の総勢6人で現地を訪れることができた。宿泊していた青海省玉樹チベット族自治州から碑に到着するまでに往復8時間を要する。未舗装の道と高度4000m以上の峠を越す難しいルートで、車の脱輪とタイヤ交換というアクシデントもあったが、玉樹出身で日本に留学しているツェジさんとそのご家族の手厚いサポートを得てようやく実現したのである。 復路を考慮すると、滞在は2時間ほどしか許されない。時間を最大限に活用すべく、急いで碑文テキストを読んだ。ダクラモは巨大な岩画と刻文で構成されており、今でも信仰の対象であるから、むやみによじ登ったりするわけにはいかない。照り返しの強い陽光の中、双眼鏡で文字を確認し、議論を交わしながら辛抱強く1字ずつ読解を進めていく。せわしなく決して楽ではない作業であった。しかし、なんと幸せな時間であったろうか。何度となく夢見たダクラモが眼前にあるのだ。しかも、もう一人ではない。信頼できる研究仲間とともに解読を進めることができたのだ。 チベットの碑文調査は、文字どおりのフィールドワークである。道無き道を進んで行う碑文調査は、研究チームがサポートしあい、さらに現地の人々の協力を得てはじめて可能になる。孤独な「机上の学問」を行ってきた私はすっかりフィールドの魅力にとりつかれてしまった。 フィールド調査中、興味深い経験をした。我々がある磨崖碑を前にして読解を試みていたときのことである。景勝地でもあるので地元のチベット人たちも遊びに来ており、我々が古い文字を前に呻吟しているのを興味深げに覗きにくる。そのうちの一人が何をしているのかと話しかけてきた。我々が古い文字を読んでいることを知るや、「こうやれば良いんだよ」と飲みかけのペットボトルの水を碑文にバシャッとかけたのである。しかつめらしい顔をして碑文を仰々しく読んでいた一同は不意を突かれたが、なんと碑面がキラキラと輝き出し、反射の具合で文字が浮かび上がってきたのである。 また、留学中のチベット人で我々に同行していたジョマさんが、刻まれた文字を指でなでながら読む方法を開発した。これも私には全く考えもつかない大胆な方法で驚いたが、なかなかどうして意外に効率がよいのだ。ジョマさんはみるみるうちに読解が上達し、古チベット語の文字解読に密かに自信をもっていた私の読みをどんどん訂正するまでになったのである。以来我々は事あれば、水をかけつつ指でなぞりつつ読解を進めることとなった。実践的な方法の獲得もまたフィールド調査の醍醐味である。◆点と点をつなぐ こうして集めてきた史料は、そのままでは使えない。マクロな視点から編纂された伝世史料とは異なり、出土文書や碑文は生の情報であり、大きな歴史の流れの中の小さな一点でしかないのである。そこでこの一点一点を正確に解釈した上で、歴史の波の中に位置付けなければいけない。しかしいかんせん、古チベット語史料は肝腎の読解が難しい。意味が不明な単語や表現が頻出し、しかも大概は断片である。例えば手紙だと、延々と時候の挨拶文が続き肝心の本文はわずか1行ということもあるが、その1行の意図がわからないことなどざらである。当人たちが生きていた時代には説明不要の当たり前のことだったのだろうが、その当たり前が我々にはわからないのである。 このようなときに役立つのが、テキストデータベースである。一つ一つの例では意味のわからない単語や表現も、用例を集めて前後の文脈を見れば、ある程度意味を類推できるようになる。であるからこそ、古チベット語のデータベースの実現は、研究者たちの長年の夢なのであった。その夢を実現したのが、「古チベット語文書オンライン(Old Tibetan Documents Online)」 (http://otdo.aa-ken.jp/)である。研究者たちにはOTDOの略称で知られているこのプロジェクトは、ウェブ上における古チベット語テキストデータベース構築と運営を目的としており、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所を本拠地にしている。 このデータベースの特徴は何と言っても、任意の語で検索すると、前後の文脈付きで検索結果を出力できるところにある。どんな語であっても検索結果が前後の文脈とともにリストアップされるので、その語がどのような使い方をされているかが瞬時にわかるという仕組みであり、意味が確定していない単語や表現の意味を類推するためには最適のツールである。研究者個人の経験と勘に頼っていた従来の読解方法は、このデータベースの存在によって完全に時代遅れとなった。今や世界中の古チベット語研究者は日々OTDOを訪れるようになったのである。◆史料探索は続く 史料の公開やデータベースの出現によって、私が研究を始めた時と比較すると、史料状況の充実度はまさしく雲泥の差となった。ただし古チベット語史料の多くはいまだ「点」の状態に置かれたままである。これからはこの点と点をつないで「線」あるいは「面」にしていく必要があるのだろう。 しかも、嬉しいことに「点」の数は増え続けているのだ。ここ数年でも東チベットの石渠県にて新たな磨崖碑が発見されているし、また甘粛省天祝チベット族自治県で古チベット語が刻まれた古鐘が発見された。報告論文によると古鐘は8世紀前半のものだというから、現存する中ではチベット語で記された最古の史料ということになる。中国では古代チベットへの関心が高まっているから、碑文についてはこれからも新発見が期待できよう。 出土文書についても最近大発見があった。なんと、ラサで未知の敦煌チベット語文書が存在することがわかったのである。もともと民間の商人が所有していた文書らしく、この商人が文書を手に入れた経緯は一切わからないが、その内容は古代チベットの軍事規律に関するものであり、軍事力を誇った古代チベット帝国の秘密に迫る情報を含む。敦煌文書が発見されてから百十余年、大体の文書は把握されていると考えられていたので、この発見は大きな驚きである。史料探索の道はまだまだ続きそうだ。OTDOの検索結果。検索した言葉を中心に、結果がずらりと並ぶ。
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