FIELD PLUS No.14
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チュクチ語を勉強するようになったきっかけ 私は1990年の10月に故郷の中国内モンゴル自治区を離れて来日し、最初は北海道大学で研究生として勉強することになった。北海道とはいえ、当時人口170万人ほどの札幌市における生活であり、草原に生まれ育った私にとってそこは文字通りの大都会だった。 来日して2ヶ月がたち、自宅から大学へ行く道もしっかり覚え、街の様子に少し慣れてきた頃、体に変化が起きた。最初は耳鳴りがひどくなり、何とか治まったと思ったら、今度は目が赤くなり、何度も病院に足を運んだ。だが、医者が処方してくれる薬はあまり効果がなく、原因不明のまま体の不調はしばらく続いた。そして私は、「もしかしたら、大都会という生活環境と忙しい生活が、私みたいな田舎者には合っていないのかも」と考えるようになった。 私が在籍していた北海道大学の言語学講座では当初からアイヌ語、ツングース諸語の研究が盛んに行なわれ、その後はさらに発展してエスキモー語、北米北西海岸の先住民言語の研究も行なわれるようになった。先生をはじめ、大学院生の多くがアラスカやカナダ西部、ロシアのシベリア地域で現地調査を行ない、言語の記述研究を進めていた。このような研究方法は、モンゴル語学の教授陣の講義をただ受け身に聞き、かつ文献資料を中心に勉強してきた私にとって大きなカルチャーショックだった。私はこの環境で何か新しいことに挑戦したくなった。しばらく考えた末、「どうせやるなら、モンゴルの世界からかけ離れた地域に行って、未知の民族のことばを勉強してみよう」という素朴な思いを抱くようになり、最終的には、ロシアのチュクト半島およびその周辺地域に暮らすチュクチ人が話すことばを研究してみようと決心した。そして、大学院修士課程に進学し、その3ヶ月後、「遠くて遠い」辺境の地シベリアへ1人で渡り、白夜が続く極北の土地を生まれて初めて踏んだのである。チュクチ語とチュクチの伝統文化 チュクチ人の総人口は約1万5000人であり、彼らの多くがチュクチ自治管区に居住している。73万平方キロメートルという広い面積を持つこの自治管区は、ベーリング海峡を挟んでアラスカと向い合う。チュクチ自治管区といっても、ロシア人などが大多数を占め、チュクチ人は少数派である。 チュクチ人が話すチュクチ語はチュクチ・カムチャツカ語族に属している。チュクチ語の特徴を1つ挙げれば、動詞が名詞や副詞など様々な要素を抱合しながら拡張していき、その結果長い「一語」が出来上がり、それが日本語の文に匹敵する内容になるという点がある。例えば日本語では、「私は鍋を水でゆすいだ」、「乾いたレインコートをはやく畳もう」という文を、チュクチ語では長い「一語」で言える。 チュクチの人々は伝統的には、地理的な環境と生活様式によって、おおよそ2つのグループに分かれる。一方は広大なツンドラでトナカイを追って遊牧する「トナカイ遊牧民」である。もう一方は東のチュクチ海やベーリング海沿岸地帯に住み、クジラ、アザラシ、セイウチなどの海獣狩猟や漁労活動を営む「海岸チュクチ」である。「チュクチ」という民族の名称は、前者の自称である「チャウチウ」に由来し、その原義は「トナカイ遊牧民」である。しかし、近年になって海岸チュクチが住む海岸地域には本来のトナカイ遊牧民も混じって住むようになっている。私は今までトナカイ遊牧民が暮らす西部地域に行き、彼らのことばを研究してきた。 ツンドラという自然環境を背景としたトナカイ遊牧民チュクチの文化は、海岸チュクチのそれと大きく異なっている。当然の極北のトナカイ遊牧民のことばを追って呉人徳司くれびと とくす / AA研私が故郷の内モンゴルを離れ、日本にきてから25年になろうとしている。一方で、私が研究対象として関わっているのはチュクチ人という極北の先住民である。言ってみればモンゴル、日本、チュクチという三角関係に立たされているわけだ。のこす 114FIELDPLUS 2015 07 no.14ウッタルプラデーシュ州バフラーイチ県インドテ10年近くインフォーマントとして協力していただいているチュクチ人の女性と筆者。聞き取り調査にいつも辛抱強く付き合ってくれる。2012年8月撮影。ツンドラに暮らすチュクチ人の主食はトナカイの肉である。冬の始まりに各家族がトナカイを数頭殺し、冬の食糧に備える。1997年10月撮影。夏の放牧地の風景。ヤランガという住居の外で、トナカイの毛皮で服作りに励むチュクチ人の女性。1994年8月撮影。

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