FIELD PLUS No.13
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26FIELDPLUS 2015 01 no.13 私が今年も例年通りカナダへフィ ールドワークに向かうその日、本書の著者ニコラス・エヴァンズに連絡をとると、彼は翌日からパプア・ニ ューギニアに行くところであった。私がカナダに行くのはスライアモンという先住民族の固有言語を調査するためである。この言語を流暢に話せるのは数名の高齢者に限られており、現状では、この言語は消滅の運命にある。このような言語を「危機言語」と言う。世界に6,000以上ある言語のうち、その多くが危機言語であり、もっとも悲観的だが現実的な予測では、今世紀中に地球上の言語の9割が消滅に向かうと考えられている。エヴァンズがパプア・ニューギニアに行くのは、ネン語という言語の調査のためである。この言語も小さな集団によって話されており、これまで調査がされてこなかった言語である。 どのような言語にも、そこには長い年月をかけて洗練されてきた、人間の叡智が込められている。本書で語られている言語のさまざまな姿は、人間の認知能力の可能性であり、その多様性には誰しも驚くことであろう。例えば、数え方ひとつをとっても、ネン語などパプア・ニューギニアの言語のなかには、世界の他の地域ではまったく見られない、6進法の数詞体系を持つ言語が見つかっている。さらにパプア・ニューギニアのオクサプミン語の数え方は、親指から人差し指、中指…と「指折り」数え、手首、前腕、肘、上腕、肩、首の横、耳、目、鼻と数えていき、反対側の目から親指までの、なんと27が1セットである。奇数になるのは鼻を数えるためである。 どのページを開いても、多種多様な言語の話が語られて、それは宝箱の宝石が煌きらめいているかのようである。本書では、危機言語を記録せよ、復興せよといった言葉は意外なほど少ない。しかし読者は、この煌めきこそが、まさに今、最後の光を放って消えてゆくところだと気づかされ、事の重大さに愕然とすることであろう。 そして本書には、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩から始まり、コーラン、聖書、シェイクスピア、ホメロス、そしてバスク語やアメリカ先住民語の諺などからの引用が散りばめられ、言語に関する本としては類を見ない、重層的な響きが作り出されている。 多数の言語から語彙や文法現象の例があげられているだけではなく、文学や哲学などからも自在に例が引かれており、部分的に難解になりかねない本書だが、詳細な訳注が施され読者の便を図っている。原著の不備も修正され、訳者の緻密な作業によって、原著よりも精巧に作られた一冊となった。エヴァンズ本人はこの日本語版を、原著を超えた(そして本書の前に刊行されたフランス語訳も超えた)決定版と呼んでいる。今、世界中で何が消えつつあるのか研究者の本棚渡辺 己わたなべ おのれ / AA研卓越したフィールドワーカーが紡ぎだす壮大な言語世界には、我々の「常識」を覆す現象が数あまた多描かれている。「グローバル化」の陰で我々は何を失いつつあるのだろうか。 本書の最後には、原著にはなかったエヴァンズの自伝的エッセーが加えられている。圧倒的な知識と洞察力を見せてきた著者だが、実は、若い時最初は医学部に入学、それから心理学に転向し、その後ようやく言語学の道に入ったことが語られている。関心の赴くまま紆余曲折しているが、どれも無駄にはなっていない。むしろそれが今の彼の幅広い関心と知識につながっている。そして、「言語学者になることもなく」と題したこのエッセーから伝わってくるのは、言語、文化、そして研究に対する著者の謙虚で真摯な姿勢である。「(私は)言語学者としての仕事とは、絶え間なく本物の言語学者に近づいていく過程であると見なしている…。」世界的に著名な学者だが、本人は、まだまだ本物の言語学者にはなれていないと考えているのだ。それは、汲んでも汲み尽くせぬ多様な言語現象に、フィールドで直に触れている者の偽らざる気持ちであろう。自らを学者と呼ぶ、口ばかり達者なエセ学者がはびこり、すぐに役に立つとされる実学ばかりが重視される現代において、本書は稀代な光を放つ。願わくば、その煌めきが多くのひとに届いてほしいものである。消えゆくことばを追って「言語学者になることもなく」ニコラス・エヴァンズ 著大西正幸・長田俊樹・森 若葉 訳『危機言語――言語の消滅でわれわれは何を失うのか』(京都大学学術出版会、2013年)パプア・ニューギニアで懐中電灯の明かりの下、ネン語話者と調査をするニコラス・エヴァンズ。この話者は学校教育はほとんど受けていないが、言語に対して鋭い感覚を持ち、単語やフレーズをノートに書き留めてはエヴァンズのもとを訪れ、繊細な説明をするという。

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