16FIELDPLUS 2015 01 no.13紛争地に研究者として関わる 私と研究対象地パレスチナとの関わりは、1990年代の後半からである。当時、パレスチナはイスラエルとの直接政治交渉の開始で和平ムードに沸いていた。海外からの援助拡大に伴い、国際NGOのプレゼンスが高まり、特にベツレヘムやラーマッラーなどの町では外国人の姿を見かけることも多かった。私自身も日本からのNGOのツアーに参加し、パレスチナ/イスラエル(争いの対象となっているひとつの土地とふたつの主体を指す名称)を訪れた。 だがその状況も、オスロ合意に基づく交渉期限が2000年に切れ、第二次インティファーダと呼ばれる騒乱状態が始まってからは激変した。自爆攻撃やイスラエル軍の侵攻が始まり、物理的に治安が保たれなくなったからだ。連帯運動であえて戦闘地域に足を踏み入れる活動家を除けば、しばらくは外国人が立ち入らない時期が続いた。その後は少しずつ治安が回復して援助が再開され、現在に至っている。 比較的政情の悪い時期でも、情勢を慎重に判断すれば、現地に足を運ぶことは可能である。そうして調査を続けるうちに、私は研究者の職を得た。援助資金の有無に関わらず、必要性と情勢を自分で判断して現地に入れるのは、研究者の利点だろう。だが、このような特性をもつ地域に、研究者として行くと辛いこともある。そこには同業者の姿が非常に乏しいからだ。 ほとんどの外国人は、大使館か、国連か、NGOの関係者、もしくはジャーナリストである。彼らはパレスチナに対してなんらかの直接的な恩恵をもたらす人々であり、苦境を国際的に報じる人々である。そんな中で、何の役に立つかも分からない研究のみをしに行くのは非常に苦しい。現地での理解が得られないから、との理由で、調査地に入る際に案内役から「ジャーナリストだと名乗りなさい」とアドバイスを受けたこともある。 近年では、国際援助そのものを対象とする研究も増えてきた。そこで得られた知見は将来的に、よりよい国際援助を実施するうえで役に立つかもしれない。だが私の研究対象は援助ではない。援助に関係する技術でもない。むしろ紛争そのものについて、その政治的構図の変動や、人々が望む解決策、残されるであろう問題などについて、深く掘り下げ紛争地での研究からパレスチナ学生基金の立ち上げへ錦田愛子にしきだ あいこ / AA研紛争地に関わり研究を続けると、様々な場面で自身の姿勢を問われることがある。研究の切り口だけでなく、圧倒的な不正義に直面したときの態度など。専門が国際援助ではない自分は、研究以外の道でも模索を続けている。かえす 2初年度奨学生ワラーさんの卒業写真(2014年6月、本人提供)。ヨルダン大学(2007年2月、撮影:錦田愛子)。セルビアコソボマケドニア黒海地中海ゴスラヴィアアンマンエルサレムテルアビブヨルダン川西岸地区パレスチナ自治区ガザ地区ヨルダンエジプトイスラエルシリア地 中 海地 中 海死 海アンマンエルサレムテルアビブヨルダン川西岸地区パレスチナ自治区ガザ地区イスラエルシリア黒 海地 中 海死 海ケアンズワイルナメドーバンクガーネット山タウンズビルオーストラリアワロゴ語が話される地域ハーバート河紅 海UNRWAのスタッフと一緒に(2014年8月、撮影:臼杵悠)。
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