FIELDPLUS 2015 01 no.1314ワロゴ語の調査とその成果 1971年3月にモナシュ(Monash)大学(メルボルン)の言語学科の修士課程に入学した。1971年から1974年にかけて、3回、豪州東北部でビリ(Biri)、ワロゴ(Warrongo)、ガビルガバ(Gabilgaba)、ボロゴイバン(Bologoyban)等の言語を調査した。全て消滅寸前だった。 調査の中心はワロゴ語である。タウンズビル(Townsville)市の西北、ケアンズ(Cairns)市の西南の言語である。調査は合計約8ヶ月、行った。データは主に最後の話者、故アルフ・パーマー(Alf Palmer)さんから得た。この地域の言語は当時既に全て消滅寸前だったが、パーマーさんは例外的に詳しい言語知識を持っていた。しかし私は勉強不足で、無知だった。現地調査の経験も無かった。英語もろくにしゃべれなかった。しかも、調査できる話者はたった一人しかいない。辛かった。 調査の成果を修士論文「北クイーンズランドのワロゴ語文法」(英文、Tsunoda 1974)として提出した。2003年にワロゴ語のreference gram-mar(仮に「記述文法」と訳す)を新たに書き始めて、『ワロゴ語文法』(英文、Tsunoda 2011)と して出版した。『簡明ワロゴ辞典』(英文、Tsunoda 2003)も書いた。簡単な辞書である。その他に、論文を多数書いた。 『ワロゴ語文法』の主な内容は、下記の通りである。1章「言語と話者」(周辺の言語、地域の歴史、文化的・社会的背景〔親族名称、神話、名付けなど〕、先行研究等)、2章「音韻論」、3章「品詞と形態論」、4章「統語論」。本全体で781頁である。かなり詳しい記述を残せたと思う。最後の話者一人でも、しかも僅か約8ヶ月の調査でも、これだけ詳しく記録できた。これはひとえにパーマーさんが良いデータを提供して下さったおかげである。ワロゴ語のレッスン 1981年にワロゴ語の最後の話者パーマーさんが亡くなった。1998年に現地で言語復活運動の計画が始まり、協力の依頼が私に来た。2000年3月と2001年3月にタウンズビル市に行き、予備的な打ち合わせを行った。ワロゴ語復活運動の中心人物はパーマーさんの孫娘レイチェル・カミンズ(Rachel Cummins)さんである。 2002年3月にタウンズビル市でワロゴ語のレッスンを開始した。その後、同年8月、2004年3月、2006年3月と8月にもレッスンを行った。合計で5回である。1回につき4日か5日、レッスンを行った。出席者はカミンズさん、娘さんの内の二人、その他のワロゴの人たちである。 今までに、発音、基礎語彙、活用(名詞、代名詞、動詞)、単文(自動詞文、他動詞文、平叙文、疑問文、命令文)、複文、ミニ会話、親族体系、神話、名付けを教えた。 角田三枝博士が、日本語教育の経験を生かして、レッスンの行い方、教材の準備等、様々な面で協力して下さっている。例えば、レッスン用のカードを作って下さった。名詞の勉強のための、山の絵、家の絵等、動詞の勉強のための、人が歩いている絵、人が泳いでいる絵等、名詞の格接尾辞(格助詞のようなもの)の勉強のためのカード等である。これらのカードをレッスンで使ってみたら、受講者、特に、子供さん達に大変好評であった。このカードのコピーを科研費の報告書の論文「言語変容の研究:言語の死と再生―ワロゴ語の場合」(英文、T. Tsunoda and M. Tsunoda 2007)に載せた。 シドニーのThe Australian Literacy & Numer-acy Foundationという慈善団体の協力を得て、2011年9月と2014年3月に現地に行き、子供用のかえす 1ワロゴ語の最後の流暢な話者であった故アルフ・パーマーさん(1972年、豪州、クイーンズランド州パーム島)。パーマーさん(右)と筆者(1974年、パーム島)。パーマーさんの子孫と筆者(タウンズビル)。レイブンスホーキラマピーコックサイディングパーム島フォックス山ワイルナメドーバンクマウント・ガーネットタウンズビルケアンズオーストラリアワロゴ語が話されていた地域ハーバート川ワロゴ語(豪州)の復活運動角田太作つのだ たさく / 国立国語研究所名誉教授、AA研共同研究員消滅危機言語を記録することも、言語再活性化運動に協力することも、大変困難なことである。しかし、このことを通して言語学は人類文化に大きく貢献できる。
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