FIELD PLUS No.12
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26FIELDPLUS 2014 07 no.12この交易ルートは、おそらく紀元前の古代エジプト・ファラオの時代からすでにあったもので、ローマ時代、ビザンチン帝国の時代、そしてイスラーム時代にわたって、極めて重要な役割を果たしました。しかし、現在、過酷な自然条件と、それに加えてエジプトとスーダンとの間の国境未画定地域であるために、地図の上でも未測量区ですし、これまでに踏み入った人や歴史研究もほとんどありません。私は、飯塚さんや川床睦夫さん(中近東文化センター元主任研究員)などの協力を得て、イブン・ジュバイルやイブン・バットゥータ、その他にトゥジービーなどのアラビア語の旅行記を使って、あらかじめ現代の地図にルート上の停泊地・水場・ワーディー(涸れ河)・山などの位置を想定しておいたうえで、実際のフィールド調査をおこないました。 もう1つはイラン高原とペルシア湾を結ぶザグロス山脈越えのキャラバン・ルートの調査であり、上岡弘二さんと共同で調査をおこないました。当然のことですが、海のルートは陸のルートと相互有機的に繋がっています。もしもキャラバン隊が港に到着した時点で、すでに船が出港していたならば、さらに1年間、次のモンスーンを利用して出る船を待たなければならないことになります。家島◦イブン・バットゥータの旅の記録に書かれたアラビア語は、今から650年以上前に使われていたものです。しかも、彼は現モロッコのタンジャで生まれたので、彼の使用したアラビア語はベルベル語の混じったマグリブ・アラビックとアンダルス・アラビックです。ですから、一般の辞書を使って解釈すると意味を取り違えたり、同じ単語でも別の意味を含んでいたりします。イブン・バットゥータの記録のユニークな点として、彼は自分の国ではこのように言っているが、普通のアラビア語ではこのことであるとか、訪れた旅先ではこのように喋っているとか、とくに町・村や地域名についてはシャクル、つまりアラビア語の読み方をちゃんと書いてくれているのです。しかも食べ物とか食器、テーブルなどについても、どういう形のもので、どのように使うかといった説明文を加えた場合もあります。 こうした点は、他の旅行記にはあまり見られないですよね。アラビア語の辞書を引くと、これは籠、瓶や皿の一種などと書かれているだけで、実際の形とか大きさが分からず、あまりぴんとこないですよね。だから、私は現地を訪れると、まず最初にその土地の市場と博物館に出かけます。そうすると、その土地で使われている独特の食べ物や物品の名前、市場にどのような人が集まっているか、なども分かります。イブン・バットゥータから直接、旅の話を聞き取り、本にまとめた人物はイブン・ジュザイイという、当時、売れっ子の若い文学者でした。イブン・ジュザイイはバットゥータの話をできるだけ面白くするため、たくさんの驚異譚を挿入したり、詩を書き加えた部分もありますので、偽作だと主張する一部の研究者もいます。しかし、常に意味内容を変えずに正確に書き写そうとした態度が見られます。幸いなことに、現在、ジュザイイ自身による直筆本の後半の一部がパリの図書館に所蔵されています。この点は、マルコ・ポーロの記録とは違いますね。飯塚◦先生は海と港を中心に調査されておられますが、一方で、イブン・バットゥータにも、そして先生が現在邦訳を進めておられるイブン・ジュバイルによる12世紀のメッカ巡礼記にも、陸路に関する記録がかなり詳しく残されています。それらの陸上ルートを踏査するフィールドワークも同時になさってこられたのではないですか。家島◦そうです。私はこれまでに2つの重要な陸上交易ルートの調査を実施しました。 その1つはナイル川と紅海を結ぶ東部砂漠越えのキャラバン・ルートの調査です。南イランのクヴァール川に架かるサーサン朝時代の橋梁址(1987年1月)。クーへ・アースィヤーブ・バーディーの大断崖とカシュカーイー遊牧民のテント。カシュカーイー遊牧民。サーサン朝時代のキャラバン・サライ址。

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