20FIELDPLUS 2014 07 no.1220国の東部では、それはスワヒリ語であった。当時私はテンボ語はもちろんのことスワヒリ語もできなかった。ただ国の公用語になっているフランス語は多少できた。もし私がフランス語のできるテンボ語のインフォーマントを見つけていれば、直接調査ができたのだが、事はそう簡単ではなく、フランス語のできる隣のハブ族の青年を通訳に雇って調査をしたのであった。私がフランス語で言って、それを通訳がスワヒリ語に直す。答えは、直接、テンボ語のものが返ってくる。 通訳を介しての調査は、通訳者の言語が絡むので、それなりに面白いこともあったが、如何せん、まどろっこしい。しばらく経ってから、これはスワヒリ語を知らないと調査はできないと思うようになり、現地語の調査と並行してスワヒリ語の調査を行うことにした。スワヒリ語はケニア・タンザニアの海岸地帯を発祥の地とし、アラブ商人やヨーロッパの植民地行政官、また宣教師などによって東アフリカ全体に広がり、それがさらにコンゴ東部にも広く話されるようになったのである。ただ、コンゴのスワヒリ語はケニアやタンザニアのものとは若干異なる。教科書で勉強すれば、タンザニアのザンジバル方言をベースとした標準語ということになるが、生きたスワヒリ語を使うには現地のスワヒリ語が必要だったのである。このコンゴ東部のスワヒリ語の調査は、のちに『ザイール・スワヒリ2000文』(フランス語)という1冊に結実した。1985年のことである。コンゴ・スワヒリ語も この著書には思い出がある。1976-1977年の最初の調査の後1978年に『テンボ語語彙表』という小冊子を米山先生のいた京都大学教養部社会学研究室から出していただいたが、この『ザイール・スワヒリ2000文』というのが、私にとって実質的に最初の著書なのである。誰にとっても最初の1冊というのはうれしいものである。当時私はAA研に勤めていたが、これは、私のアフリカ研究のもう1人の師である富川盛道先生が監修されていたAfrican Languages and Ethnographyの第19巻目としてAA研から出版された。富川先生は、とにかく若い研究者に1冊出させてやろうということを考えておられた。しかも理論的なものでなくて資料的なものが重要だと考えていた。私の『ザイール・スワヒリ2000文』というのはスイスの言語学者アンリ・フレの『フランス語2000文』をコンゴ・スワヒリに適用したものであった。 African Languages and Ethnographyのシリーズは、自分で版下原稿を作り印刷所に回すのである。そのため、自分でタイプライターを打たなければならなかった。しかも、きれいに。「このスタイルはオレが始めたんや」と言うのを、江口一久さん(当時国立民族学博物館)から聞いたことがある。出版コストを下げるために、自分でできることは何でもしなければならない。 その頃ちょうどIBMの電動タイプライターが普及しだしたばかりで、まだAA研所員にも十分行きわたっていたとは言えなかったが、私は1台あてがわれて、タイプライターを一夏打ち続けた。夜の10時や11時までになることもしょっちゅうであった。当時AA研にいた中野暁雄さんが夕方になると、しばしば、「梶くん、飲みに行こうよ」と誘いに来たが、私がタイプライターを一心に打っていると、「じゃあ、また今度」と言って出て行くのであった。 この『ザイール・スワヒリ2000文』は小型の版ではあったが、総ページ数400を超えるかなり分厚いものであった。製本されて納入された時、富川先生に「おかげさまで出来ました」と報告に行くと、先生はしばらくパラパラとめくって、「お前、これで助教授になれ」と言うのである。そんなもので助手が助教授になるものかどうかわからなかったが、当時私はこれと並行して『テンボ語語彙集』(フランス語)というのも作っており、それもほぼ同時にできた。私が助教授になったのが1987年の2月であったから、この業績が評価されたのは間違いないように思う。テンボ語聖書マルコ伝の草稿(左)とそのコンゴ・スワヒリ語訳(右)。フランス語版から訳した。
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