FIELD PLUS No.12
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18FIELDPLUS 2014 07 no.1218査で、トルコ西部のマニサ地方に残されている台帳を用いて、この地方に強大な勢力を築いたカラオスマンオウル家の研究をすでに行っていたからである。この家系は、19世紀以後の中央政府による「近代化」に名を借りた中央集権化政策下の弾圧をかいくぐって、現在なおこの地方の名家として存続している。それを可能にしたのは、在地社会の生活に密着した「チフトリキ」と呼ばれる大農場経営である。その際の私の研究姿勢は、台帳の文字面をただ読むだけではなく、地域の自然環境・生態系の観察によって行間を読み取ることで得られる現場感覚のある分析をすることだった。このため、できるだけマニサ地方一帯を歩き回り、人びとと交流することを心掛けた。その結果、当のカラオスマンオウル家の方々とも知り合い、いまでもおつきあいをしている。 サライェヴォでの調査でも、地方名士の手にあるチフトリキの分析に中心を置き、できるだけ台帳の文面と地域の自然的・生態的環境との関連を考えることに集中した。私は、86冊の台帳のうち、年代的に連続性の高い後半期の76冊(1762-1851年)のすべてを点検し、合計5470人(大部分はムスリム)分の遺産目録を確認し、このうち資産内容の豊かなアーヤーン26人の遺産の内容を逐一筆記しはじめた。この時、思いがけないことが起こった。それは、私がとくに重要な遺産目録の記載されているいくつかの台帳の当該箇所に紙を挟んでおいたところ、図書館員の一人が、それらの台帳を無言で持ち去ってしまったのである。それは私がセルビア・クロアチア語を話せないからである。私はあぜんとしていた。ところが、しばらくすると、その人は、私が紙を挟んだ台帳の当該箇所のすべてをコピーして持ってきてくれたのである。それはそれでありがたかったが、考えてみれば、コピーは原本を損傷する度合いの大きい複写の仕方である。胸が痛んだが、おかげでこの調査の報告としてMaterials on the Bosnian Notables(AA研、1979)を出版したとき、26人のアーヤーンの遺産目録のうち、コピーのある5人については、その全財産を、シャツ一枚にいたるまでラテン文字に転写して掲載することができた。サライェヴォ滞在中に親しくお世話になった東洋学研究所のサーリヒ・トラコさんが、のちにこの本の書評をしてくれたときに、全財産を含んだ5人のアーヤーンの部分が最も役に立つと評価してくれたのがうれしかった。 台帳の分析にあたって、私が関心を集中させたのは、チフトリキに関する部分であった。当然、カラオスマンオウル家のチフトリキと比較しようとする意図であった。そこで気がついたのは、ボスニアの場合、チフトリキで収穫された穀物に関する計量単位がきわめて微細であることである。マニサ地方では、イスタンブルの穀物市場で使われる基本単位キレ(約25.65kg)がそのまま使われている(ただし、それがイスタンブル標準と同量とはかぎらないが)のに対して、サライェヴォでは、その四分の一にあたるシニックを基本とし、さらにその四分の一であるチャールという単位が使われているのである。そしてまた、農地に関する記述の中にトルコ語で「頂上」ないし「丘」を意味する「テペ」という単語がしばしば大事な財産として記録されている。図書館の机にへばりついていた時は、この単語が何を意味するか全くわからなかったが、休日にトラコさんの案内で近隣のチフトリキを散策しているときに、はじめてわかった。それは、刈り取って脱穀した後に残された小麦の藁を畑の真ん中に山のように積み上げて乾燥させ、その上に雪が積もった状態のまま、冬の間の家畜の飼料にする、つまり天然のサイロである。寒冷な山地であるボスニアでは、チフトリキといっても、農業と牧畜が有機的に結びついた、再生産ギリギリの農家経営の一形態であって、とても「大農場」といえるものではない。だからサライェヴォ周辺だけでも912のチフトリキが数えられる。他方、採草地で刈り取った干し草も大事な財産として記録されている。そこで、さっそく、大鎌で草を刈る光景を、トラコさんに「やらせ」で再現してもらって写真撮影をした(写真4)。「近代」の呪い このように、貧しいながらものどかに暮らしていたボスニア地方が、国際社会を揺るがせる紛争地帯となったのは、ヨーロッパ列強による干渉と近代化による社会の画一化とが、地域の人びとの生活の微妙なバランスを破壊したからである。その結末が、冒頭に記した「サライェヴォの銃声一発」である。1990年代の紛争で東洋学研究所は灰燼に帰したが、幸いガーズィ・フスレヴ・ベゴヴァ図書館は焼失をまぬがれ、台帳も無事だったようである。しかし、セルビア・クロアチア語もドイツ語も話せない私を温かく迎えてくれた方がたは、あの紛争を生き延びることができたのだろうか、考えるだけでも胸が痛む。3サライェヴォ旧市街の中心地バシュチャルシーヤ(後方にモスクのミナレットが見える)。4大鎌で採草地の草を刈る仕草を再現してくれたサーリヒ・トラコさん。

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