FIELD PLUS No.12
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17FIELDPLUS 2014 07 no.1217クロアチア語に翻訳された『コーラン』にボスニア=ヘルツェゴヴィナ共産主義者同盟の書記長がなんと!序文を書いて出版したため、信者たちが怒って序文を破り捨てて書記長のもとに送り返したという話もあった。 サライェヴォは、海抜537メートルの高地に位置するが、周囲を高い山々で囲まれている盆地である。夏は暑く、冬は寒い。11月になると、夜は零下10度を超える寒さに震えたものであった。それでもこの町では地中海地方の「シエスタ」の習慣がまだ残っていて、図書館は事実上昼までしかやっていない。それもそのはずで、この町を出て山を越え、ネレトヴァ川を下って、ヘルツェゴヴィナの主都モスタルを過ぎると、あとは、地中海の一部に属するアドリア海に向けて一直線の道のりである(写真1)。夕方になると、昼寝を終えた人びとが厚い外套を着こみ、毛皮の帽子を目深にかぶってコツコツとブーツを鳴らしながら、凍てついた道を歩く姿が印象的だった。東洋学研究所で さて、私がこの町を調査の対象に選んだのは、この町に残された86冊の「『シャリーア』法廷台帳」(以下台帳)を使って、アドリア海とバルカン内部にいたる交通の要衝として栄えたこの町の歴史の一端を明らかにしたいと思ったからである。ちなみに、「『シャリーア』法廷」というのは、イスラム法、すなわちシャリーアにのっとって行われる法廷であると同時に、これを主宰する裁判官カーディは地方行政の責任者でもあった。このため、アラビア文字表記のトルコ語で記録されている台帳には裁判記録だけでなく、売買契約、婚姻関係、そして遺産相続などに関係する、はば広い分野の記録が残されている。旧オスマン帝国領であった現在のトルコ、バルカンおよびアラブ諸国の地方都市には多数の台帳が残されており、地方史研究の最も重要な史料群である。 台帳は、いわばこれを所蔵する国にとっては、その歴史を明らかにするための貴重な「文書」であるから、これを閲覧するためには許可を得なければならない。私は東京のユーゴスラヴィア(当時)の大使館を通じて正式の許可を取得していた。だが、サライェヴォに到着してさっそく「東洋学研究所(Orijentalni Institut)」に出向いて調査許可を取った旨を伝えると、驚いたことに、「ああ、その許可は連邦の首都のベオグラードの話であって、ボスニアには関係ないよ。ここで文書を見たいのなら、カースィム・エフェンディのところへ行って、2 サライェヴォの旧市街を行き交う人びと(中央にトルコ帽を被ったハッジの姿が見える)。許可をもらいなさい」ということであった。「ユーゴスラヴィア」というのは、そういう国なのだ、と痛感させられた。正しくは、カースィム・ドブラチャ教授というこの人が「エフェンディ」というオスマン時代の学者に対する尊称で呼ばれていたのには驚いたが、彼がサライェヴォの台帳が保存されているガーズィ・フスレヴ・ベゴヴァ図書館(旧メドレセ)の館長さんだった。 万事この調子で、この町では、いまだにオスマン帝国時代の生活習慣が色濃く残っている。一例をあげれば、メッカの巡礼を済ませた人(ハッジ)は、トルコ共和国では禁止されている「トルコ帽」を1977年当時でもかぶっていて、人びとに尊敬のまなざしで見られていた。寒冷なこの国から極暑のメッカへの巡礼は並大抵の苦労ではなく、かつては、多くの人が巡礼の行路で死亡していることを、台帳の記録から確かめることができる。このように、サライェヴォでは、近代化の波に洗われて伝統的な街の景観が失われてしまったトルコとは違って、往年の中世イスラム都市の面影がいまなお残されている(写真2、3)。 さて、「エフェンディ」の「お許し」を得て、さっそく台帳に向かい合う。台帳は1551年から1851年におよぶ86冊からなっていた。とくに1762年以降は、ほぼ毎年連続している。私の調査の最初の目論見は、アドリア海にのぞむ商港ドゥブロヴニクからサライェヴォへとネレトヴァ川沿いに伸びるルート上で活躍した「カペタン」と呼ばれる人びとに関する史料を探すことだった。ところが、台帳を開いてみて驚いた。なんと!!この大事な文書の中の「カペタン」という文字の下に赤鉛筆で線が引かれているのである。誰かがすでに研究に着手しているのか?(それにしても、日本でいえば、重要文化財に匹敵する貴重な文書に線を引く、などということは考えられないではないか!)私はすぐに町へ飛び出して、本屋に「カペタン」と名がつく本がないか確かめに行った。たしかに、1954年に『ボスニア=ヘルツェゴヴィナにおけるカペタン制』という本が出版されていた。その著者が赤線を引いたのかどうかは確かめようもないが、私は、このテーマを諦めざるを得なかった。 現場感覚のある古文書研究を! そこで、私は、18世紀のオスマン帝国各地に勃興した「アーヤーン」と呼ばれる地方名士の研究に方針を転換した。というのも、私は1974年の第一回目の海外学術調セルビアコソヴォクロアチアスロヴェニアモンテネグロマケドニアボスニア=ヘルツェゴヴィナ黒海地中海アドリア海ネレトヴァ川旧ユーゴスラヴィアを構成した6共和国サライェヴォモスタルドゥブロヴニクマニサ地方

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