FIELD PLUS No.12
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16FIELDPLUS 2014 07 no.1216悲劇の都市、サライェヴォでのフィールドワークから永田雄三ながた ゆうぞう / 東洋文庫研究員、元AA研フィールドワークで出会った人びととの懐かしい思い出は、あれから何十年も過ぎたいまでも消え去ることはない。1 ヘルツェゴヴィナの主都モスタル、16世紀にネレトヴァ川に架けられた橋スターリー・モースト。内戦で破壊されたが、現在修復されて世界遺産になっている。(内戦前の写真)イスラム都市サライェヴォ 旧ユーゴスラヴィア(ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国)の町サライェヴォと聞くと誰しも思い浮かべるのは、1990年代初めの民族紛争のさなか、日本のテレビにも映し出されたあの光景、街路樹を燃やして寒さをしのいでいた人びとの姿、そして「民族浄化」といういまわしい言葉が飛び交った悲惨な「殺し合い」であろう。現在、サライェヴォを首都とするボスニア=ヘルツェゴヴィナは、歴史的にみると、19世紀末から第一次世界大戦にいたるまでの時期もまた、国際紛争の焦点であった。その結末は、セルビア人民族主義者の青年による、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻の暗殺(1914年6月28日)であり、この「サライェヴォの銃声一発」が第一次世界大戦に発展するひとつのきっかけになった。 サライェヴォがバルカン半島におけるイスラム文化の一大中心地であることは日本では存外知られていない。しかし、ここは15世紀半ばにオスマン帝国に併合されてから、住民の多くがしだいにイスラムに改宗した結果、町にはモスク、バザール、イスラム学院(メドレセ)が多数建設されて、典型的なイスラム都市の景観を備えるにいたった。しかし、一方では、キリスト教徒やユダヤ教徒の数も多く、かれらは近代にいたるまでムスリムたちと平和裡に共存していたのである。 私が初めてこの町を訪れたのは、AA研の三木亘助教授(当時)を団長とする海外学術調査「イスラム圏社会・文化変容の比較調査」隊の一員として調査を行った1977年の9月と11月の2か月だったから、この町がまだ平和であったほぼ最後の時期である。このころ、ユーゴスラヴィアは、チトー大統領の晩年だったが、町の人たちのあいだでは、チトーが大統領でいるあいだはこの国はなんとか治まっているが、その後はわからないよ、という噂がしきりにささやかれていた。ちょうど、サライェヴォ大学にイスラム学部が新設されて、イスラム神学に関する連続講演が行われたりしていた。私の記憶に間違いがなければ、セルビア・ふりかえる2

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