FIELD PLUS No.12
17/36

15FIELDPLUS 2014 07 no.12るかに早い時代(16世紀)の内陸探査記録(カダモストによる)にすでにこの農具の記述があることからしても、イレールはサヘルの一部地域に独特な農具であったことが分かる。こういった農具がもつ優秀さについてさえ、わたしはよく理解していなかったのだ。さらには牧畜についてのわたしの知識、これはもう本から得た初歩的な借り物でしかなかったのは言うまでもない。村に滞在し始めて、一から十まで教えてもらう身でありながら、それを「調査」と称するとは今から思うと「厚顔無恥」という言葉が身に沁みる。取り返しがつかないということ もう一つある。退職してのち、現地セネガルに容易には行けなくなったこととも関連するのだが、自分で実際に目にし、話を聞いて学ぶというより、一次、あるいは二次資料など書かれた資史料に頼って仕事というか勉強することが増えた。そういうことの一つとして「セネガル歩兵」ないしは「セネガル狙撃兵」と呼ばれ、宗主国フランスが戦った戦争に駆り出された西アフリカの広い地域からの若者たちのことがある。セネガル歩兵は19世紀半ばという早い時期から存在したのだが、大量に動員されるようになったのは第一次大戦時である。20世紀初頭の西アフリカ、自動車はおろか、靴というものさえ見たことがなかったであろう、アフリカの村々で日々を過ごしていた青年たちが、否応なく駆り(狩り)出され、銃を持たされ、ヨーロッパでの激戦の前線に立たされた。第一次大戦が終わった後、第二次大戦でも、またベトナムやスエズでの戦いにおいても、つまりフランスが海外で戦った戦争にも動員されている。 じつは、わたしが初めてセネガルの村に赴く前、ダーラという小さな町で何日かを過ごしたとき、見ず知らずのわたしを泊めてくれ、何くれとなく世話をしてくれた一家の主がかつてはセネガル歩兵だったのである。そのことを今になってわたしは深く理解するが、当時のわたしはなんと愚かなことよ、よく知ることもなく、したがって詳しい話を聞くこともないままに過ごしてしまったのである。いかにも気の強い奥さんに押され気味のお人好しそのもの、孫の面倒を見るのが楽しみという感じの人であった。当初、わたしが彼らの食べ物を食べられるかととても気にしていた。それも今思えば、彼がヨーロッパ生活を経験しており、ヨーロッパ人が自分たちとは異なった食べ物を食べるのを実見していたからこそであろう。ある日、写真を撮ってほしいと言い、家の中に引っ込み、しばらくして外に出てくるとカーキ色の軍服に身を固めた誇らしげな姿の彼であった。もちろん、第二次大戦時に動員されたのであろう。軍隊の上官(フランス人)から言われる命令口調を何度も真似して、思い出し笑いをしていた。「前えー進め」という掛け声のフランス語をよく覚えていて何度も繰り返していた。そしてどういうわけか、さかんに「カプート」という語を口にしていた。あきらかにフランス語ではないこの「カプート」なる語はドイツ語と思われる。ドイツ兵の捕虜収容所で勤務していたセネガル歩兵もいるから、あるいはそういった関係の任務に就いていたのかもしれない。その元セネガル歩兵も亡くなって久しい。 愚かと言うより申し訳ないと言うべきであるが、わたしはその時に撮った軍服姿の彼の写真のネガを失っている。振り返ると自らの愚かさばかりが押し寄せる。家畜への水やりは重労働である。放牧中の少年。かつてセネガル歩兵だったSBK氏。

元のページ  ../index.html#17

このブックを見る