人であるという。ランテン族は、ミャオ・ヤオ系の言語を話す人々であり、19世紀の半ば以降に中国から現在のラオスの領域へ南下してきたといわれている。彼らは、山地民では珍しく漢字で書かれた文書を保有し、現在でも儀礼などにおいて活用している。ラオスの共通語であるラーオ語の名前を持っている人が多いが、漢字で書くことができるランテン語の名前も持っているのが普通である。 鄧玄斈がナムター盆地に到来したとき、そこは深い森で住んでいるものはいなかった。時を同じくしてこの盆地にやってきたシダー族やビット族もまた、だれも住むものはいなかったと口を揃える。彼らの系譜を追い移動歴を検討すると、遅くても1880年ごろのことである。ランテン族は、タイ系の民族と違って、おもに水田ではなく焼畑で稲を育ててきた人たちである。そして、シダー族とビット族も焼畑耕作で稲を育てる人たちである。彼らは、盆地に入植し、ター川のほとりで焼畑をし、家畜を飼い、野生動物を追い、虫や野草を集め暮らしていた。そして、綿花を育て、糸をつむぎ、布を織った。 ランテン族の長老によれば、タイ・ニュアン族を最初にここに導いたのは、ルアンシッティサンではなく鄧玄斈であるという。ランテン族の氏族のひとつ、鄧氏である鄧玄斈は、有力な他の氏族を取り込み、盆地において大きな勢力を誇っていた。そして、ルアンパバン王国に入貢し、王からこの地の支配者であることが認められていた。さらに、シャム王国やナーン国にも入貢することで、盆地の平和を維持していた。年に一度ルアンパバンまで朝貢に赴き、ときには直線距離で800km離れたバンコクまで、朝貢に出かけた。バンコクからの帰途、ナーン国に立ち寄った鄧玄斈は、ナムター盆地が故地であるというタイ・ニュアン族に出会う。そこで彼は、10家族のタイ・ニュアン族を連れ戻り、かつて暮らしていたという村の位置に入植させた。さらに、入植したてで水田からの収穫がおもうように得られなかった彼らに、米を分け与えて生活を支援した。 ところが、その後、ランテン族、シダー族、ビット族は、それまで暮らしていたター川のほとりから山麓への移動を余儀なくされる。大勢の黒タイ族が、それまで暮らしていたベトナム北部の情勢が悪化し、ここまで避難してきたためである。水田にこだわる彼らは、当然低地に入植し、耕地を拡大していった。そのうち、焼畑と水田のあいだで土地の競合が起こるようになった。水田耕作は、焼畑よりも土地生産性が高いことが多いが、土地の環境を選ぶ栽培方法である。つまり、水が集まる土地でしか稲を育てることができない。一方、焼畑は低地でも山地でも稲を育てることが可能な栽培方法である。山地民は、環境適応性の低い栽培方法によって大勢の人口を養わなければならないタイ系民族に、盆地を譲ることになったのである。国家建設を支えたランテン族 盆地の周縁への移動を余儀なくされ、また人口規模でも少数派となったランテン族であったが、彼らの盆地開発における存在感はその後も薄れなかった。国境を策定し自らの領土を確定したいフランスは、彼らの言語能力を重用したのである。ナムター盆地に県庁をおく現在のルアンナムター県は、中国と接する県である。この国境線をどこに引くかにあたって、自らの言語に加えて、中国語が話せ、読み書きができる彼らは、中国との交渉の前線に立った。とくに、国境付近にあった塩えん井せいをどちらが取るかが交渉の焦点であった。塩井がラオス領土に含められることになり、そしてこの塩井で生産される塩が、現在のラオス北部6県の需要をまかなっていることを考えると、彼らの功績は、盆地の開発だけにとどまらず、より大きな視点から評価されるべきものであろう。 鄧玄斈の家系は孫の代で途絶えてしまう儀礼で用いる竹紙を作る。数百年間、書き継がれてきた文書。夕方、祭司が村の子供たちに漢字の読み書きを教える。儀礼のひとこま。が、その後も鄧氏は指導者を輩出し、ランテン族も内戦期のラオスを支えていく。ターセーンという指導者の地位にあった鄧氏が1966年に残したメモによると、ベトナム兵とともに敵兵を盆地から追い出し、現ラオス政府軍のために数ヶ村から米を集め供出している。また、戦闘が始まるとすぐに、タイ・ニュアン族や黒タイ族は、タイ王国へ逃げていってしまい、あとには水田だけが残された。ランテン族は、彼らの代わりに水田耕作に従事して、建国前のラオスを支えたのである。 ランテン族は、タイ系民族が語る盆地の開発史においては、その周縁性が強調され、また少数民族のうちのひとつという位置づけがなされている。また、2005年の県の人口統計をみても、彼らが全体に占める割合は3%に満たない。そしてなにより、水稲の栽培技術をもたず、焼畑と家畜飼育を中心とした生業を営んできた人々であるため、農業技術の後進性に注目されてしまいがちである。しかし、ランテン族が語り、そして彼らが経験してきた歴史は、タイ系民族の歴史において軽視され、そして無視されることも多い山地民が、ある小さな盆地の開拓を主導しただけでなく、国家建設においても重要な役割を演じてきたことを教えてくれるのである。成人儀礼。祭司たちは若者が成人になる手助けをする。7
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