鄧ダン玄ヨン斈ハックの盆地開発 山地民が主導したラオス北部ナムター盆地の再開発 富田晋介 とみた しんすけ / ペンシルバニア州立大学客員研究員、AA研共同研究員ネイサン・バデノック 京都大学白眉センター特任准教授メコン川タイ文化圏では、古くからタイ系民族による「くに」が成立してきた。山地民は、その成立過程においてどのような役割を演じたのだろうか。ランテン族の盆地開発をとおして、その一端をうかがってみよう。無人の盆地 ラオス北部に位置するナムター盆地は、平地部の面積が48km2であり、日本でいえば京都の亀岡盆地ほどの広さをもつ盆地である。この盆地では、その中央を北から南へ蛇行するター川の両岸に水田が広がり、雨季の終わりには水稲が盆地一面にその穂を揺らす光景を眺めることができる。盆地を囲む丘陵地では、ゴムノキ栽培や焼畑が行われている。主にタイ系民族が水田を耕作し、ゴムノキ栽培や焼畑は、クム族、フモン族、ランテン族などの山地民とよばれる人たちが主に従事している。現在の不揃いな一筆一筆の水田の形状や丹念につくりこまれた畦をみると、いかにも長い年月をかけて開発されてきたように思われるが、実はこれらの水田はたかだかここ100年間ほどで創り上げられたものでしかない。この盆地は、タイ・ニュアン族が暮らした後、拮抗するいくつかの王中 国ミャンマータイラオスランテン族の村の風景。ベトナム田植えが終わったばかりのナムター盆地。タイ系民族が語る盆地の再開発 ラオス観光局が運営するウェブサイトやこの盆地に暮らすタイ・ニュアン族が伝える文書によると、故地を回復した英雄の名を、チャオ・ルアンシッティサンという。現在のタイ王国の領域にあるナーン国において長い間避難生活を余儀なくされていた、この盆地の最初の入植者であるとされているタイ・ニュアン族を、首長であるルアンシッティサンが導き、ムアンとよばれる「くに」を再建したという。彼らは、ユアン族ともよばれ、現在のタイ北部のチェンマイにその中心をおいたラーンナー王国を建設した民族として知られている。彼らは、1891年に再入植し、荒廃した仏塔を再建し、寺を新たに建立した。そして、ルアンシッティサンは、より強大な王国を牽制すべく近接するタイ・ルー族の「くに」と協力関係をむすび、自国の自治を保持したという。 ところが、彼の「くに」は、やっと再建できたと思ったのも束の間、そのわずか2年後の1893年には、自らがあずかり知らないところで、フランスの影響下におかれてしまう。そして、彼は自らの盆地の支配者として国間の争いの影響を受けて、百数十年の間、無人であったのである。綿糸をつむぐ。の地位を維持するために、フランスと交渉していくことになるのである。その後、他のタイ系民族や山地民たちが、次々にナムター盆地に流入し、1960年代に勃発した右派と左派の内戦の影響を受けながら、様々な民族が暮らす現在のナムター盆地の様相を形成したというストーリーである。 しかし、これはあくまで国家やタイ・ニュアン族が一方的に語る歴史でしかない。タイ文化圏には、無数の盆地が点在するが、それらの開拓や「くに」の建設において、多かれ少なかれタイ系民族の先駆性や優位性が強調され、山地民がその周辺におかれる点が、どの「くに」の建国史にも共通して表れる。ナムター盆地に降りていき、そこに広がる水田を眺めていると、古くから水田耕作に従事してきたタイ系民族が物語の中心に位置することに、疑いを抱くことなく納得してしまいそうになる。山地民が伝える盆地の開発史 一方で、ナムター盆地の山裾に暮らすランテン族が伝える歴史は、開拓におけるもうひとりの英雄の存在を教えてくれる。ランテン族の首長であった、鄧ダン玄ヨン斈ハックである。彼こそが、無人化し深い森林に埋れていた盆地を、再開拓し、再び人が住める場所とした最初の6ナムター盆地
元のページ ../index.html#8