フィールドプラス no.11
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イ ン ド ネ シ アディリ東ティモール写真は、ハニスさんの村に設置されたダリヌア。山河の悪い霊は、霧のように村に侵入してくるので、キデ(丸いお盆様のもの)で扇ぎ返す。毎年新たに設置される。(以下、スケッチはすべて山口昌男、写真は著者)ジャカルタウルパダ集落フローレス島は、山がちで風光明媚な島。一年は、4月頃から11月頃までの長い乾季と、短い雨季からなる。島のほぼ中央にある海抜1888メートルの霊峰の麓に、ウルパダは位置する。ここを拠点として、山口さんは村から村へと歩いた。ブル島フローレス島下のスケッチは、ダリヌア(dari nua 「村立ち番」)。書きこみによると、細い竹がくくりつけられている竹筒の上に、卵とお米のお供えが置いてあり、細い竹の先の方から大きな棘がぶら下がっている。山河の悪い霊が村に侵入してくるのを防ぐ。山口さんは、人型の彫像をたくさんスケッチした。私の知る限り、これらは大体50センチくらいの素朴な容姿の立像である。彫像自体は男女の別のはっきりした裸体。衣服のように布がまかれていることもある。それぞれに名前がついていて、村人に尋ねると、たいていの場合「祖先」と答える。24リズム、視覚、共振 人類学の仕事には、詩性と哲学と思想がなくてはならない。山口昌男さんの仕事で秀逸なのは、詩性、そのなかでも、リズム。彼の議論で重要なのは、線的につながっていることでも、面的に広がっていることでもない。宇宙空間のなかに撃たれるリズム。一点から、3次元、4次元、n次元時空に響く、波動としてのリズム。異時リオ語でニピテイ(nipi tei)といわれる「夢見」は幻視のようなもの。それによって、家づくり、彫刻、病気治しなどの神秘的な能力や知が与えられる。誰でも「夢見」をするものだといわれるが、多くの人に信頼を得て、定常的に依頼を受ける人は、「夢見人」と呼ばれる。ハニスさんの村の「夢見人」は、大学卒の元村長だ。彼は、2006 年に等身大の祖先坐像を「夢見」を通じて創り、自らが帰属する儀礼家屋のなかに安置している。彼の儀礼家屋のなかに入るたびに、私はこの祖先像にびっくりさせられる。山口さんなら、どんなスケッチをしただろう。ハニスさんの村の外側の小さな社に、山口さんが描いたような男女一組の祖先立像が安置されていた。1983 年それらは忽然と姿を消した。空の相似性を照らし出す彼の仕事は、メタファーにも満ちている。 もう一つの特徴は、運動を捉える視覚の卓越。山口さんのデッサンに如実に表れている。彼のデッサンは、決して説明的ではないし、「現実」を写し取るための写真の代用でもない。今回編集部から送っていただいた、東部インドネシア・フローレス島の調査で描いた、儀礼家屋、彫像、浮彫など103枚のデッサンの写真を見て、どんなにわくわくしたことか。これまでも山口さんは、その著作に、自分で描いたデッサンを載せてきた。しかし、生のデッサンは、印刷されたものよりも、山口さんの目と手の動き、息遣い、鼓動、身体の緩急を伝えてくれる。その地域の儀礼家屋、彫像、浮彫は、「夢見」によって創られる。つまりデッサンを描くことは、それらを作った人々の視覚や身体の動きに、そして「夢見」にも共振しているのだ。その共振が、見ている私にも伝わってくる。インドネシア・フローレス島での フィールドワーク 山口さんは、1975年の2月から10月まで、フローレス島のリオ語を話す村々を精力的に回ってフィールドワークをした。43歳から44歳のことである。ブル島での調査を政治的状況から断念し、東ティモールへと移動したが、様々な理由から、アメリカ人人類学者にその地での調査を委ね、フローレス中部に落ち着くことになった。フィールドワークに同行したのは、道案内、通訳、解説者、宿飯の提供者でもあったハニスさん。山口さんより少し年下である。ハニスさんは、山口さんとの出会いを、以下のように語る。ハニスさんは、フローレス島を横断する唯一の自動車道に面した所に住んでいた。当時、車が通ることは今山口昌男さんの仕フィールドワーク事 青木恵理子あおき えりこ / 龍谷大学

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