顔――記録と記憶のあわい真島一郎まじま いちろう / AA研「中心と周縁」理論や、いたずら者でありながら文化英雄でもある「トリックスター」論などで1970年代から80年代の文化の活性化に大きく貢献した。『「敗者」の精神史』で日本の精神史に新たな視点を切り開き1996年大佛次郎賞受賞。1984年芸術文化勲章受章(仏)、1994年パルム・アカデミック章受章(仏)、2011年文化功労者表彰。サンタル人の似顔絵。(山口昌男画)22山口昌男(やまぐち まさお)略歴1931年8月20日北海道生まれ1955年 東京大学文学部卒1960年 東京都立大学大学院社会人類学専攻修士課程修了、博士課程進学1963〜1964年 イバダン大学(ナイジェリア)社会学講師1965〜1966年 東京外国語大学外国語学部講師1966年 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に配置換え (1967年助教授、1973年教授、1989〜1991年所長、1994年定年 退職、1994年名誉教授)1970〜1971年 パリ第10大学客員教授1977〜1978年 メキシコ大学客員教授1994〜1997年 静岡県立大学教授1997〜1999年 札幌大学文化学部長(1999〜2003年学長、2003〜 2005年文化学部教授、2005年名誉教授)2013年3月10日没 フィールドで出逢っただれかの姿を読み手にひときわ伝えたいとき、人類学者は記録の一環として、そのひとの肖像写真を民族誌に載せることがある。フィールドでのスケッチも、むろん貴重な記録の手段とされてきたはずなのに、それが掲載図版の一部となる場合、フィールドで生きる人間の姿、とりわけ人の顔からは、たいてい表情が抜け落ちる。村落の居住形態や、生業活動のようす、祭礼の執行にさいしての匿名的な人間の配置こそが、スケッチのもたらす情報、記録となるからだ。そしてこの場合、肖像写真の使用と、スケッチにおける表情の不在とは、おそらく学問という制度の内で表裏の関係にある。 もとより人がいて出逢いがないと始まらないのが、制度をとっぱらったあとに残る人類「学」の本領であることを、山口昌男のスケッチほど読み手に直観させた「記録」はかつてあっただろうか。そもそも、出逢った人びとに即製の似顔絵を贈ってはフィールドを渡り歩くことをつねとする人類学者など、いったいこれからも現れるものだろうか。ときには大胆な省略を効かせ、コミカルな表情に仕立てながら、山口が「ザラ紙にパーッと」いのちを吹き込んでいった人びとの、顔また顔。世間の硬直した分類や境界など軽々と押しのけて疾走したこの天才の思考に、だから人間の姿は、記録一辺倒として刻まれない。贈られた似顔絵にたいする人びとの無言の返礼は、山口が生涯を賭けて彫琢した思想の深みに、遺された記録と記憶のあわいに、くまなく浸潤しているはずだからだ。分類されざる光景、かけがえのない刹那の出逢いに宛てられた手放しの礼讃、それこそが彼のいう「目の祝祭」(『踊る大地球』pp.126-127)であったのならば。事件はいつも現場(フィールド)で起こっている。しかし「会議室の人」にも理解してもらうためには現場から何かを持ち帰らなければならない。ビデオや写真で充分だろうか?2013年3月に亡くなった文化人類学者山口昌男は、現場を切り取る手段として、カメラだけでなくペンも好んで用いた。調査から学会にいたるまで常にスケッチブックを持ち歩き、さっとスケッチして、「線にする記憶」として、あたかも身振りをなぞるかのように現地における体験を自らの内なるものへとしていったのである。それらのスケッチは、1999年2月に「越境の人 山口昌男ドローイング展」として銀座の画廊で展示されると同時に、千数百枚のうちの百枚ほどを選び出して『踊る大地球』という画文集が刊行されている。今回、ご遺族のご厚意により、『踊る大地球』に収録されなかったスケッチを拝借することができたので、スケッチで描かれている地域などの専門家に独自の視点から筆を振るっていただくこととした。越境の人の手わざによせて、それぞれの越境する視線を持つ研究者たちがどのような言葉を紡ぐのか、その声を聞いてみよう。追悼特集越境する視線──
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