フィールドプラス no.11
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旧ユーゴスラヴィアのマケドニア共和国(FYROM)ギリシアいろいろな言語による都市名の表記。全てギリシア語テサロニキからの転訛である。ギリシア領「マケドニア」トルコマケドニア・トラキア省庁舎。この建物はかつてイタリア人建築家の手により、オスマン帝国の州知事官邸として建てられた。「解放」の前後を通じて、権力の空間的配置は不変である。歴史家のフィールドとは通例、文書館や図書館ということになるだろう。オスマン史を学ぶ筆者は概ねイスタンブルの研究機関で仕事をするのだが、ここでは、それに次いでよく出かける、テサロニキの街を紹介したい。「アタテュルクの生家」を示すプレート。現在はトルコ総領事館が隣接している。「マケドニア問題」 イスタンブルから飛行機で1時間強、アテネに次ぐギリシア第二の街、テサロニキに着く。筆者がこの街に赴くのは、20世紀初頭のオスマン帝国で活躍したギリシア人たちの足跡を辿るべく、テサロニキの図書館や文書館に収集されている史料、特に定期刊行物を読むためである。 ここは紀元前4世紀、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の死後に、その妹にちなんで名付けられた街である。大王死後、ヘレニズム諸王朝の時代を経てテサロニキはローマ支配下に入り、15世紀以降は更に、ビザンツに取って代わったオスマン帝国の統治下に置かれた。 そして現在、この街はギリシア領「マケドニア」の中心都市として位置付けられる。だがこの位置付けは、19世紀以来、国際的な論争の対象となっている。それは即ち、古典古代の終焉以来、この街とその後背地 ――マケドニア――が、果たして「ギリシア」の地であり続けていたのか否かをめぐる論争であった。 ただ、それは必ずしも、この街が西欧中心主義の19世紀という時代でもなお、イスラーム国家たるオスマン帝国に支配されていたからではない。「野蛮」で「アジア的」なトルコ人の国家、即ちオスマン帝国は、「ヨーロッ「解放」とその先 こうした中、1912年に勃発したバルカン戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパからほぼ駆逐され、テサロニキはギリシア支配下に入った。ギリシアの公定史学の立場からすれば、この街は長き「トルコ支配」から漸く「解放」され、母国の懐に戻ったということになる。 だが、それで「マケドニア問題」が消滅した訳ではない。バルカン戦争とそれが誘発した第一次世界大戦とを経た後も、セルビアやブルガリアは、マケドニアへの進出を諦めてはいなかった。事態を更に複雑にしたのは、第二次世界大戦後、ユーゴスパ」の一部であるここから駆逐されるまでのことである。テサロニキについて問題なのは、オスマン帝国が駆逐された場合、その後に誰がこの街を支配すべきかであった。既に1830年代には、オスマン帝国から独立する形で、ペロポネソス半島——島嶼部を除く現在のギリシア領のほぼ南半分——を領土としてアテネを首都とするギリシア王国が成立していた。このギリシア王国は、ここへの領土拡張を正当化しようとして、「ギリシア人」たるアレクサンドロス大王とその後継者たるヘレニズム諸王朝、そして「ギリシア国家」たるビザンツ帝国の伝統を楯に、テサロニキとその後背地マケドニアの「ギリシア性」を訴えていた。 だがこれは必ずしも自明の真実ではない。それどころか、「マケドニア」のみならず、「ギリシア」自体の純粋性に、しばしば疑問が呈されていた。一説によれば、古典古代の終焉以来、「ギリシア」も「マケドニア」も、実は北方からの民族移動によりその住民はスラヴ化しており、従って、もはやこれらの土地には古代ギリシア文明とは何の繋がりも持たない人々が住んでいるのだとされた。やはりテサロニキの獲得を目指す隣接するスラヴ国家、即ちセルビアやブルガリアは、こうした説を追い風に、19世紀末から20世紀初頭にかけ、オスマン帝国の解体を見越して、そのヨーロッパ領を如何に分割するかをめぐる争い、即ち「マケドニア問題」をギリシアとの間で繰り広げた。テサロニキアテネイスタンブル20フィールドノート 藤波伸嘉 ふじなみ のぶよし / AA研研究機関研究員とある都市の「解放」

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