フィールドプラス no.11
13/34

ナシ族に浸透しているチベットのバター茶。一つにトンバ文字がある。かつてナシ族には、様々な儀礼や占いを行うことができるトンバと呼ばれる人々が多くいた。トンバは、絵文字のような独特の文字を用いて、儀礼のしきたりや彼らの神話を経典に記していた。それがトンバ経典である。彼らは祖先から伝えられた祭りの儀礼の中で、しきたりに従って様々な供物を捧げ、それらの経典を唱えて神を祭った。トンバのルーツに関わる伝説は、チベットによく似たものがあり、また、横書きのトンバ経典は、その形から見るとチベットの宗教経典とも似ているが、独特な文字のルーツや、それぞれの経典の成立年代については未だに明らかになっていない。文学と男女の情死 ナシ族の文学には、口頭で伝承された神話や民話、民謡があり、それらと内容的に関連を持つトンバ経典に記された物語もある。トンバ経典の物語は、文字で記されている点や、その分量、内容の豊富さなどから重要視されている。ナシ族の創世神話「ツォバトゥ」、結ばれない男女の情死を語る「ルバルザ」、古代の部族間闘争の伝説「スアドゥア」の三つは、ナシ族の三大古典文学作品とされている。 「ルバルザ」に記された男女の情死は、現実のナシ族社会とも深い関わりを持っていた。20世紀の初頭、麗江は「世界一の自殺の都」と言われるほど自殺が多く、その多くが結ばれない男女の情死であった。情死が多発した原因には様々な説があるが、一番有力視されているのは、ナシ族の比較的自由な男女関係と、漢民族の厳格な婚姻制度の衝突である。もともとナシ族の社会では好きになった若者同士が結ばれていたのに、漢民族の習慣が浸透するに従い、結婚相手は親や長老によって勝手に決められるようになり、絶望した若者たちは情死に走ったというのである。ただし、この他にも度重なる戦争による徴兵といった原因なども考えられており、未だに明確な結論は出ていない。 ある記録によれば、1930年代の麗江では毎日どこかで情死した若者を弔う儀礼が行われていたという。トンバは、彼らを弔うために専用の儀礼を作り上げていた。祭壇には情死の女神の像が置かれ、様々な供物を前に「ルバルザ」が唱えられた。ナシ族の信仰では、自殺や事故など異常な死に方をした者の霊は、彼らの祖先のいる故郷の地に帰れない。そのため、情死者のための楽園が考えられた。情死の霊の支配する「12の峰間の谷」は、玉龍雪山の奥深くにあると伝えられる。そこは悲しみも苦しみも、老いも死もない、情死した若者の霊だけのための楽園であった。トンバによって「ルバルザ」などの経典で祭られ、情死した男女の霊はこの楽園に送られたのである。現在のナシ族には、こうした情死はもはや見られないが、「ルバルザ」の主要なテーマは近年地元で制作されたミュージカルの題材となったりしている。世界遺産・麗江の裏側 現在の麗江は、急激な観光地化の中にある。麗江の旧市街は1997年に世界文化遺産として登録され、年間数百万人が訪れる中国有数の観光地となった。筆者は1997年から2000年まで麗江に住んだが、街の変貌ぶりは想像を超えるもので、それは現在も続いている。麗江の観光開発の中心となっているのはナシ族ではなく、漢民族など外から入ってくる人々である。旧市街では、多くのナシ族は彼らに住居を貸し、家賃収入を得て郊外のマンションに引っ越した。ナシ族の家屋は、旅館や土産物屋、バーなどに改装され、ナシ族の文化の香りは希薄になった。今では旧市街の中心部は、夜になればネオンきらめくバーや、大音響で客を呼び込む怪しげなディスコが立ち並ぶ、喧噪の歓楽街と化している。 麗江にこれほど観光客が集まる理由の一つは、その気候である。夏には灼熱地獄と化した中国各地の大都市から、避暑を目的に多く復元された木氏の宮殿「木ムー府フー」。の人々がやってくる。もともと旧市街の住居は漢民族の文化の影響を大きく受けたものであり、それを改装した旅館は彼らに懐かしさと安らぎを与えてくれる。従って、中国の国内観光客にとってナシ族の文化はさほど重要ではなく、彼らはトンバの文化などにはあまり関心がないと言う。ナシ語やナシ族文化に満ちた農村部に足を運ぶこともほとんどない。また、麗江を舞台として作られた恋愛物のテレビドラマも観光客の増大に一役買った。その影響で、今では異性との出会いを求めて麗江に来る人も多い。情死の伝説とも関連付けられて、いつしか麗江は「愛の街」になった。そういう目的の人がナシ族文化に興味がないのはなおさらである。旧市街から離れた観光地化とは縁の薄いナシ族の村落では、今日もゆったりとした時間が流れてゆく。観光客であふれる現在の麗江。多くのナシ族が新たに開発された街の郊外へ移り住んでいる。11

元のページ  ../index.html#13

このブックを見る