Field+ 2013 07 no.1030などなど。この曲こそ、革命後のエジプトで大ブームを巻き起こした「自由の声」であった。もう帰らないと言って俺は出てきたすべての道に血で文字を書いた聞こうとしないヤツにも話を聞かせ邪魔するモノはすべて崩れ去った夢だけが俺たちの武器だった目の前に明日は開けてるずっと前から待っていたなかなか見つからない俺たちの居場所この国のすべての通りで自由の声が呼んでいる ストレートなメッセージ、かつてのUKロックを思わせるシンプルなメロディー、そしてタハリール広場の今の空気を切り取ったような新鮮な映像が、若者たちの心をつかんだ名曲である。この曲は当初口コミで、後に各種ニュースメディアで全世界に報じられることによって、ユーチューブ上でアクセス数100万件を超すヒット曲となった(youtube.com/watch?v=SJgjIsfPKmE)。この曲を歌った2人のミュージシャンは、カイロキー、ウステルバラドという2つのロックバンドのボーカリストであった。それまでインディーズで活動していた彼らだが、この曲のヒットでそれぞれのバンドも一躍有名になり、特に革命に賛同する若者たちからの支持は絶大なものとなった。 「自由の声」が発表された翌日の2月11日、ムバラク大統領の辞任が発表された。タハリール広場を埋め尽くした群衆は、夜明けまで歓喜の声を上げたが、一夜明ける頃には、それまで息を潜めるようにして成り行きを見守っていた人気歌手たちが、次々に新曲を発表した。 若年層に人気の大衆歌手、ハマーダ・ヒラールの場合を見てみよう。彼は革命後いち早くタハリール広場に現れて撮影を行い、「1月25日の殉難者たち」と題する楽曲を制作した。デモに参加して亡くなった若者たちを追悼する内容の歌である。広場にたたずむヒラールの姿と、激しいデモの様子とが交互に映し出され、あたかもヒラール自身がデモに参加していたかのようなモンタージュ効果をもたらしている。ヒラールはこのあと間髪を入れず、「顔を上げろ、エジプト人だろ」と題するエジプトへの応援歌を発表した。アップテンポで祖国愛を歌い上げるこの歌はたちまち人々の支持を集め、この曲名が流行語となるほどであった。 革命直後のこの時期にはヒラールのみならず、多くの歌手たちが新曲を発表した。その内容は、革命を賞賛するもの、殉難者を悼むもの、そして新たな国づくりのためにエジプト人の団結を訴えるものに大別される。革命フィーバーに沸くエジプトで、革命を貶めるような歌が現れるはずもなく、むしろ革命であらわになった国民の間の亀裂を埋め合わせるため、歌手たちが必死で団結のメッセージを——日本風に言えば「絆」の重要性を——訴えているかのようにも見えた。デモのさなかに体制側についていたディヤーブやホスニーも、新たな愛国ソングをリリースしていた。「エジプト人よ、さあ帰ろう」と歌ったタウフィークさえも、「これでようやく、心の底から歌いたい歌が歌える」と前非を悔いるような歌詞を歌っていたのである。革命に飽きた「多数派」 ムバラクの退任後、軍による暫定統治期間を経て、エジプト初の文民大統領であるムルシー政権が誕生した。しかしこの間も広場の若者たちは、軍政やムルシー政権に対する抗議活動を続けている。デモ側と政権側との衝突は断続的に起こっており、時には死者が出ることもある。 そんな中「アグラベイヤ(アラビア語エジプト方言で「多数派」を意味する)」と言われる国民の多くは、エジプトの景気が上向かず経済状況も良くならないのは、革命の継続を掲げる若者たちのせいだと考え、彼らの抗議デモに批判的になっているとも言われる。たとえばアムル・ムスタファという歌手は、「僕はみんなを見ている」という曲で、「革命でスターになった」テレビの文化人たちを「空虚で中身がない」と揶揄した。革命自体への批判ともとれるが、む集合住宅の屋上に据え付けられたパラボラアンテナが、にょきにょきと群生するキノコのように見える。ここ10年ほどでおなじみになった光景だが、エジプトではケーブルテレビが普及しておらず、各世帯個別で衛星放送を受信している。「ブラック・ブロック」を取り上げる新聞。反イスラーム主義政権を標榜する新たな革命組織と位置づける論調もあれば、破壊衝動に駆られた無法な若者集団と決めつける論調もある。写真の記事は前者の論調。革命以来、カイロの街のいたるところで見かけるようになったというグラフィティ・アート。人々の自由な自己表現の場としては各種インディーズ音楽と共通する現象である。エジプトカイロ市内ナイル川ナイル川カイロ旧市街アレキサンドリアナスル・シティータハリール広場カイロタワーザマーレク地区
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