FIELD PLUS No.10
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17Field+ 2013 07 no.10国内(九州)のフィールド調査で。オーストラリア(アリス・スプリングス)のフィールド調査で。インド(ブバネーシュワル)の国際学会の合間に。中国(広州)の国際学会の合間に。国内(九州)のフィールド調査で。ドイツ(ベルリン)での脱原発研修旅行。年をとればその挽回もし難くなる。なので、次の世代に「せめてこういう失敗だけはするな」と言い残したくなる。 民俗学者・宮本常一の良き理解者であり、支援者でもあった渋沢敬三が、「失敗史が書けぬものか」と嘆息したのにはそうした文脈があったのであろう。また昨年他界した水俣病の研究者・原田正純が、福島の原発事故被害対策に向けて、水俣で「何を失敗したのか学ぶ」ことが大切だ、と語ったのも、そうした文脈があってのことであっただろう。 フィールドでの失敗とのつきあい方には色々ある。失敗をしないというのは理想だが、研究者が新たな試みをする際のみならず、生きている人間を相手にした調査である以上、そこには必ず研究者が一方的には制御し難い失敗の可能性がつきまとう。 二度と失敗が起らないようにするというのがその理想だけれども、冒頭に書いたように、どの研究者も成長の途上にありながら研究をするし、時代が下れば新たな現象が出てくるので、理想以外に現実的な失敗とのつきあい方のオプションを学んでおくと良いだろう。なので失敗しないために、現地の視線を意識して書く、というのはつきあい方の一つであろう。失敗しても、それをさらに悪化させない、というのもその一つであろう。 研究者が報告書を巡って、現地との関係を絶たれる程のものにせず、再び現地で当該の地域のことを一緒に考える余地をもっておくためにも、報告書の書き方、返し方を変えるのもその一つであろう。失敗をしないことが肝心というよりも、失敗とのつきあい方に失敗しないようにすることが肝心なのであろう。

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