14Field+ 2013 07 no.10野宿者支援の世界 1990年代から日本では野宿者が急増しました。野宿者のことを日本ではホームレスと呼んできました。野宿者が都市部で急増し、全国で2万人ちかくになるなかで、2002年に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が施行されました。この法によるとホームレスとは「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者」と定義されています。したがって公園や河川敷に小屋やテントをたてたり、段ボールを剥き出しの状態で使用して寝起きする文字通りの野宿者が日本ではホームレスと呼ばれているのです。しかし、現在では無料低額宿泊所や病院、入所期限のある施設等、不安定な住居で暮らしている人なども含めた広義のホームレス概念が広まりつつあります。 特措法以降、都市部では自立支援策が徐々に整備され、また支援団体もNPOとなり、独自のシェルターやグループホーム、あるいは無料低額宿泊所などの施設が設置されてきました。そのため野宿者は減少し、平成24年の全国調査では9,576人と発表されました。 さて、私は2000年から2001年まで名古屋市で、2002年から2007年まで大阪市の野宿者支援の現場で、参与観察を行ってきました。 野宿者支援には様々な活動がありました。医療・生活相談では、毎週行われている炊き出しの場で、医者や福祉系のボランティア学生とともに、体の具合を聞いたり、簡単な薬を渡したり。また入院したい人や生活保護を申請したい人などから、翌日に福祉事務所に同行するために経歴をお聞きしました。生活保護とは、生活が困窮している人に対して最低限の生活を保障する制度ですが、当時はしばしば野宿者は住所がないという理由や、まだ働けるなどの理由で申請を窓口で取り下げられたり、申請が却下されてきました。そのため福祉事務所に同行して、適切な対応がとられるかどうかを見届けたのでした。 また夜回りは、21時半頃に集合して、中心地街をお茶やビラをもって、野宿者の安否をたずねてまわる活動です。大半の野宿者が眠っている時間でしたが、交流の側面もあって大切な活動のひとつでした。「こんばんは、夜回りです。体の具合はどうですか?」「ああ、ちょっと風邪ひいたね」「風邪薬いりますか?」「ああ、ありがとう」などの会話がなされます。夜回りも毎週まわるため、そのうち顔なじみになってきます。場合によっては救急搬送することもありました。 また野宿している場からの追い出しに伴い、相談を受けたりしました。置いていた荷物を撤去されたことへの相談にものり、団体交渉をもつなど、支援活動は社会運動としての局面もありました。こうした活動に一部の野宿者も参加していました。ですから支援者と野宿者が協同して支援(運動)を展開していたのです。そして私はこれらの活動に参加しながら、支援者と野宿者の「支援する側/される側」という関係性や「仲間」という関係性について社会学的に考えてきました。東京にて さて、2010年に私の職場は東京になりました。私はまた日常的に関わることのできる現場を探していました。その頃、池袋の「東京プロジェクト」という支援プロジェクトが実施されていました。野宿者のなかには精神疾患や、なんらかの障害を抱えている人が多いことが現場で報告されてきました。そして東京プロジェクトでは、そうしたいままでケアが届きにくかった人々に対する集中的な支援が、“TENOHASI”という野宿者支援団体、北海道浦河の “べてるの家” をルーツにもつ“べてぶくろ”、“世界の医療団”の3団体の協同によって行われていました。 東京プロジェクトが開催していたシンポジウムに参加して、興味をもった私は、その後ほんの少しのお手伝いの感覚で日中活動に参加させてもらっていました。するとしばらくして「年度末の報告書を作成するのを手伝ってください」と声をかけてもらいました。そしてその報告書のために私は東京プロジェクトのルポを書くことになりました。語りえないことから聞こえたこと山北輝裕やまきた てるひろ / 日本大学聞き取りの対象となる人々のなかには、インタビューが堪え難くうつることもあるだろう。うまく聞き取りができなかった局面それ自体を考えることで見えてくるものもあるのではないだろうか。失敗する1野宿の当事者と支援者の「団結ソフトボール大会」。
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