FIELD PLUS No.1
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5Field+ 2009 01 no.1 配偶者と死別した後、人は何を思い、何に楽しさを覚え、どのような時にさびしさを感じるのだろうか。日本と同様パプアニューギニアでも、妻を亡くす夫は少数派である。パプアニューギニアの寡夫の暮らしぶりを、1人の男性に焦点をあてて見てみたい。 テワーダと呼ばれる人びとの村で調査を始めた頃、私はアラノという男性と知り合った。彼は教会の説教師。50歳はもう超えただろう。胸には横に切られた古傷があった。 アラノは別の言語集団の出身である。子どもの頃、彼の住む村でキリスト教の布教活動が始められた。カトリック教会に通ううち、アラノは説教師になる勉強を始めた。説教師となった彼は、村を離れて大きな教会で働き始めた。やがて20歳の頃、1973年に布教のために彼の派遣されたのが、テワーダの人びとの住む領域の最北端にあるピユ渓谷だった。 ピユ渓谷に住み始めた頃、彼はどの家を訪ねても、別の言葉を話す男性に親しみのない子どもによく泣かれたという。人びとは交易を通じてアラノの話す言葉を知るため、布教には支障なかった。アラノは教会と自宅を兼ねた家屋を造り、ひとりで暮らしながら活動を行った。彼の建てた教会は、とてもきれいな伝統家屋だったという。「屋根の高い教会だったよ」と、今もその教会を知る人びとは、空に伸びた屋根の様子を語る。最初、アラノの言葉に耳を貸さなかった人びとのなかから、やがて彼を助ける人も出てきた。 「こちらの男性が娘をくれるというので結婚した」。アラノが結婚したのは1983年頃のようである。妻の父は教会の委員だった。アラノの結婚は、ピユ渓谷を越えて、他の村に住むテワーダの人びとにとっても大きな出来事だったらしい。彼が婚資として現金400キナ(約11万円)を義父に支払ったためである。当時、プランテーション労働に出かけて現金を持ち帰る人はテワーダにおらず、現金は流通していなかった。アラノにだけ現金収入があったのである。翌年に長女が生まれた。 当時、地域の中心教会にいたフランス人神父は、定期的に村々を巡回していた。ピユ渓谷はそこから遠いため、「1ヶ所に集住するように」と、彼は新しい村の建設をアラノに提唱した。1982年にアラノは他の2人と共に、テワーダの領域の中央にあるカミナクァワを開墾し始めた。2年後にピユ渓谷だけでなく、近隣の人びとにも移住を呼びかけた。やがて人びとが集まり始め、カミナクァワが村と呼べるようになってきた。1985年には簡易診療所が設けられ、救護士が赴任してきた。 「妻はだまされたんだよ」。アラノが仕事で村を離れていた時、妻と救護士が関係を持った。妻は妊娠し、アラノから離れて両親の住むピユ渓谷へ戻った。産後の肥立ちが悪く、妻は亡くなった。子どもは死産だった。アラノには5人の子が残された。ひとりになったアラノは、年上の子どもと共に幼い子どもの世話をした。彼は長女を学校へ通わせ、長女は看護師になる夢を持った。看護学校の受験を控えた前年、長女は小学校の教師との間に子どもをもうけ、進学を諦めた。「その男が娘をだましたんだよ」。アラノはそう言った。 「末の子に食べ物を持って行くところだよ」。2008年3月、私は3年ぶりにカミナクァワ村を訪れた。村へ向かう途中、タロイモやサツマイモを背負ったアラノに再会した。1月に末の子が村から離れた小学校に入ったという。アラノパプアニューギニア僻地村落の寡夫田所聖志 たどころ きよし/東京大学医学部特任研究員、AA研共同研究員パプアニューギニア村を出て就学する子どもたちに、カミナクァワ村の人びとは時々食べ物を届けている。村に戻ったアラノに私は呼び止められた。「ほら、一緒に植えたパンダナスの実がとれたよ」。太平洋を中心に分布する有用植物のパンダナスの実を調理して作ったソースは、イモと一緒に食べられる。好物であるその実を私に見せながら、アラノは笑った。 私が村から離れる日も、アラノはいつも通り朝から教会にいた。破れた壁の隙間から、うつむいた横顔が眼に入った。アラノは十字架を手に、ひとりで祈っていた。 アラノと話すのはいつも夜だった。妻や娘の話をする時、彼はいろりの火を見つめていた。私を子どもたちとの夕食に誘ってくれた時、彼はその季節の食事について饒舌に語った。人の心を窺うのは難しい。文化的背景が異なればなおさらだろう。だが、まだ訊けずにいる胸の古傷の理由を気兼ねなく話せるようになった時、私にも彼の気持ちがもう少しだけ分かるような気がする。人が亡くなった。埋葬した後に聖書を読み上げるアラノの声は、人びとのすすり泣きの間に響き渡った。3月はパンダナスを植える季節。アラノは作ったばかりの畑にパンダナスを植えた。夕食の準備が始まるのは午後4時頃。屋根から煙が流れ出てくる。

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