FIELD PLUS No.1
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4Field+ 2009 01 no.14 「ここはフランスか?」パリを訪れた人々はしばしばこう漏らす。様々な肌の色や色彩豊かな民族服、エスニック食材・雑貨店、多様な言語が目からも耳からも飛び込んでくるのが、今日のパリ地域の姿だ。私が通うパリ郊外の1つも、戦後からアルジェリアからの移住者が多く住む地域である。 「フランスを建てたのは、われわれだ」。戦後の復興とフランスの高度経済成長期にフレキシブルな労働力として自動車製造業や建設労働者として働いた男性たちはいう。彼らが暮らすフランスは、個人が自由に生きることに寛容なことで知られるが、個の孤立やマイノリティの孤立は連帯すべき社会の問題としている。そうした社会的な連帯に加え、移民たちはフランスの社会成員としての保障がないなかでも、同郷者や職場で知り合った者同士、衣食住のシェアや様々な社会的ネットワークを通して生活環境をつくりだしてきた。こうした互助を、彼らはときに家族的連帯と呼ぶ。1人の生活者をとりまく環境のなかでも、個と社会をつなぐ方法は1つではない。 人は移動の後にも国境を越えたつきあいや互助を含む複合的な関係のなかで暮らし、子どもを育て、老いてゆく。ダリアもそんな状況のなかで育った。一族で最初に渡仏したのは父、次いで父の兄であるオジ、それから彼女の母親が当時3歳の彼女と1歳の弟を連れて渡仏した。1962年のことだ。住宅難からフランスでの2家族は1軒のバラックに同居した。周辺には同じく北アフリカからきた家族が暮らした。父の出身地で多いのはいとこ同士の結婚(イトコ婚)だ。オジはフランスで育てた次男と娘2人をアルジェリアへ戻し、長男をダリアと結婚させる気でいた。しかし同じ家で兄弟同然で育った上、縁談話が出たときまだ16歳だったダリアは、相手を手紙で呼び出し、同意を取りつけて破談にした。パリ郊外の移民たちある女性の生き方から植村清加うえむら さやか/成城大学民俗学研究所研究員、AA研共同研究員 同じ頃、社会統合を謳うフランスの都市政策の一環でアルジェリア人が集住するバラックは壊され、人々は1家族1軒、多民族混成構成に割当が決まった団地への住み替えが決まった。多民族構成の高層団地では、ご近所づきあいや人の往来が激減した。新たな都市環境での生活のはじまりと重なる時期、同世代の友人たちが次々嫁いでいった。また、当時の学校の進路指導で「移民の子」は進学組ではなく就職組とされていたが、親たちの感覚では外で働くのは「男の領域」だった。結果、「家にいること」はダリアにとって非常に孤立した状況をつくりだしたという。 そこで彼女は、家計の助けにもなるからと両親を説得して働きだした。移民コミュニティでの男女の空間規範がなければ、働き口はいろいろある。清掃婦としてスタートし、保母を経て、現在は県のソーシャルワークに携わり、社会的に困難な人々を支援する。この仕事は、定住所のない人の家探し支援やひとりで外出する習慣のない地域出身の女性の外出に同行する、フランスにきたばかりでフランス語や生活事情がわからない人にアラビア語で情報を伝えるなど、一種のよろず相談役だ。スカートの丈から、学ぶ、結婚する、働く、ひとりで暮らすなど生活のいろいろな場面で自分の意志を通すのに、ダリアは周りの人を少しずつ味方にするための様々な交渉や知恵を駆使してきた。だから、言語や行動様式の違いから起こる不都合や孤立状況には自分の経験が重なる。職場ではそれらの経験が生活者目線の機転やスタッフのなかの幅になる。 働きはじめて数年後、ひとり暮らしに踏み切った。家族でも仕事でも人の世話ははじめるとキリがない。そんなときは自分の人生を生きようと思って力を抜く。ひとり暮らしはそんな切り換えにもいい。インテリアや食器集め、壁紙貼りやペンキ塗りなど、家の空間づくりや友達を集めたパーティも楽しいひとときだ。「あのときは彼とは結婚しないと決めただけだったけど、結果的に(生き方の)選択になった」とダリアはいう。シングル主義を貫いているのではなく、小さな選択や交渉の積み重ねが今の自分だという。 彼女は今、市民団体を通じ、アルジェリアから養子を迎える準備をしている。昨年の秋、最終的な決断を意味するサインをしたが、どんな子がやってくるかはまだ決まっていない。新たな決断は、彼女をどんな世界に連れ出すだろうか。フランス パリ社会空間か密閉空間か。「モダンな住居」として登場した団地もすでに30年の歳月。甥の割礼祝い。アルジェリア系の人同士が隣人づきあいをもとに集まる機会。パリでの友人たちとの仮装パーティ。ひとり暮らしという「選択」。さびしい、楽しい、孤独

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